小説

『甘橙』細田拓海(『檸檬』)

 自分にしか聞こえない声でそう呟いたあと、さすがに「クソ」は少し悪い気がしたので、心の中で「ババア」に訂正しておいた。「今辛いのは誰のせいでもない。昨晩酒を頭からかぶった己のせいなのだ。」そんな当たり前のことを自分に言い聞かせてはみたが、それでもこの辛さを誰かのせいにしたい気持ちは抑えられず、私は周りに絶対に聞こえる声で「はぁぁぁぁ~」とため息をついた。
 何時間歩いたことだろう。ふと、旨そうな匂いがするのに気がついた。その匂いはどうやら、私のすぐ近くから発せられているらしい。すぐ横を振り向くと、私は古びた定食屋の前で立ち止まっていた。店の看板には「丸善」とあり、近所に同じ名前の本屋があることを思い出した。私は本屋というものが嫌いである。なぜかというと、そもそも本が嫌い。文字が嫌い。本屋に漂うあの紙の臭いが嫌い。兎に角、嫌いなのだ。同じ名前のこの定食屋に少しムッとしたが、私の腹は「グゥゥゥ」と鳴っていた。店の前には「日替わり定食メニュー」と書かれた看板が置いてあり、そこには、魚、ご飯、味噌汁、きんぴらごぼう、豆腐などあっさりとした品々が並んでいたが、そのうちの一つに、私の目を輝かせたものがあった。それは「オレンジ」である。
 私は、オレンジをはじめとする柑橘類が大好物である。あの甘酸っぱい酸味がなんとも言えない。こたつで食べるみかんは、この世で最大の幸福だと思っている。そしてあの丸い形が好きだ。ここだけの話だが、あのキュッと引き締まった太陽のような姿は、浜辺でビーチバレーをして戯れる健康的な女性のヒップを私に連想させる。ここだけの話である。私はそれほどオレンジが好きだ。因みにレモンは酸っぱすぎて好きではない。
 私は定食屋の暖簾をくぐり、席に着くなり日替わり定食を注文した。定食の中に並ぶオレンジを妄想すると、それは眩しすぎるほど輝いて見え、なんだか身体が軽くなったような気がした。あの塊も、今では姿を消していた。

「なるほど。つまりはこの重さだったんだな。」

 運ばれてきた定食の真ん中には奇妙な魚が陣取っていたが、私の目にはその脇に鎮座するオレンジしか映っていなかった。オレンジは勿論、最後の最後に残しておこう。私は奇妙な魚から箸をつけ、口に入れた。昼時だというのに、店内にはまばらにしか客がいなかった。店の表は古びていたし、すぐそばには洒落たイタリアンの店があったはずだから、まあしょうがない。

うまああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!え、え、なにこれ、え、なにこれ、え、え、え、え、やばああああああああーい!

 その時の私は言語能力を失うほど感動していた。熱々の鮭のホイル焼きも、濃厚な漬けマグロ丼も、絶妙に酢がきいた締め鯖も、その味を忘れさせるほどに定食の中央を陣取っていたあの奇妙な魚が美味だったのである。
 私はそれから一時も止まることなくその魚と米を貪り続けた。あまりにもその魚に夢中でその時の記憶はほとんどない。食べ終わった私はその勢いで席を立ち、三割増しの代金を机に置いて店を出た。
 私はスキップをしながら、店の前から続く緩やかな坂道を下って行った。久しぶり感じた幸福。スキップでどこまでも行けそうだった。

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