小説

『時は立花のように』佐倉華月(『三四郎』)

 空気が冷たい。風に乗って吹きつけてくるものだから、さらに冷たい。
 憲法発布から四日が過ぎた、二月二十六日。あまりの寒さに耳をきんきんさせながら登校する日々が続いている。
 広田が通っているのは、第一高等中学校。時計台のある本館の玄関前には、二月五日に決まったばかりの校旗に描かれた、橄欖が大きく枝を広げている。
 寮の生活は厳しい。面白いことが好きで落ち着きがなく、始終飛び回っている広田は、監督に押さえつけられる生活を嫌がり、入寮しなかった。
 教室に入ると、友人の坂本吉次が声をかけてきた。
「なんだ、萇。お前、鼻が真っ赤じゃないか」
「そりゃそうに決まってる。さっきまで外にいたんだから」
 広田がそう言い返したが、吉次はふうんと興味なさそうに言っただけだった。
「それよりお前、声が少しおかしいんじゃないか」
「こう毎日冷たい空気ばかり吸っているんだ。のどだってまいっちまうさ」
「そういう季節なんだ。おい、帽子はとったほうがいいぞ」
 吉次と話し込んでいたものだから、広田は帽子を外すのをすっかり忘れていた。白線の入ったこの丸型制帽にも、校旗同様柏葉と橄欖が中央に入っている。
「きっちり学生帽を被ってきているんだな」
「なに、こんなものでも少しは寒さしのぎになっているのさ」
 型にはめ込まれているようですっとしないのは確かだが、冷気から少しでも身を守れるのなら被ってやろうじゃないかというのが、広田の考えだ。
 午後の一番初めの授業が始まる前に、体操の教師がやってきて、葬儀に参列すると言った。広田とその教室の生徒は鉄砲を担ぎ、急ぎ教室を出た。
 憲法発布の日に殺された、森有礼文部大臣の葬儀だ。
 しかし広田には、大臣が殺されただの、今から校外へ出るのは葬儀に参列するためだの、そんなことはどうでもよかった。ただ自由にしてはいけないはずの時間に、こうして学校の外に出られるという何か一種の特別な喜びが、彼の中に広がっていた。
 高等中学校の隊列は、森有礼の棺が通る道の脇へ並び、そこで待ち構えた。
「お前の鼻は、すぐ赤くなるんだな」
 吉次に今朝と同じことを言われ、広田は「お前も十分赤くなっているじゃあないか」と言い返した。
「いいや、お前のほうが断然赤い」
 鏡で自分の鼻を見たわけでもないのに、なぜそう言いきれるのだろう。
何をそんなにむきになっているのだと言いたくなるほどに、吉次は広田の鼻が赤いと言い張った。

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