小説

『カルテット』千田義行(『ブレーメンの音楽隊』)

「コラ、私達もう学生じゃないんだから、そんな話し方ないんじゃない」
「固いこと言わないでよお、久しぶりなんだからさあ」
「ホント、久しぶりだよな、テヘヘ」
「コラってば。先生、本当にすみません。それで、なにを?」
 皆、意外に元気そうだ。話の輪に加わらないただひとりを除いては。
「ベートーヴェンの弦楽4重奏第13番はどうかな」
「えぇ〜、ベートーヴェン?」
「エヘヘ、意外なところ、きましたね」
「ちょっと、久しぶりにしては難解ですね。大フーガは無理だと思いますけど」
 私は、4人分の楽譜を手渡しながら説明をした。
「第5楽章だけでも構わないんだ。大フーガはなくてもいい。君たちとこれを演りたいんだ」私は弧形に並んだ彼らのちょうど中心に向き合ってたった。すでに譜面台は用意してくれている。高さもぴったりだ。「ベートーヴェンだって現実と折り合っていかなければいけなかった。失敗作とも言われた。でも、今は宇宙にまで昇っている。その一端を垣間見てみよう」
「でもさあ、第一ヴァイオリンが、ねえ」
 皆が、今日まだ一言も発していない彼に目を向けた。彼は物思いにふけるように楽譜を見つめていた。彼は不意に「先生」と声を発した。「どこかで発表をするんですか」と彼は言った。
「いいや、自分たちだけのために弾くんだ」
 そう、私が言うと、彼はほんのり微笑んだ気がした。
「どこか遠くに行くのもいいね。軽井沢とか空気のキレイなところに」
 彼の生き生きとした言葉をきっかけに、皆の表情に本格的に生気が戻ってきた。
「演奏旅行?」
「どっちかっていうと、逃避行じゃん?」
「共同生活、とか笑?」
 場がいっぺんに華やいだ。私はもう、これだけで満足だった。
「まあまあ、まずは一回合わせてみようよ」
「はあい、コンマスッ」
 しばらく、思い思いに音を確かめたあと、ふっ、と沈黙に包まれた。
「まずは、<カヴァティーナ>を演ってみよう、ゆっくりでいいから」
 私は、静かに指揮棒を振り上げた。

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