小説

『カルテット』千田義行(『ブレーメンの音楽隊』)

 大学を無事卒業し、地方公務員試験にも合格して、親も素直に喜んでくれた。市役所に勤務を始め、初めての給料をもらい、週末には親や仲のいい友人と街にでかけた。時折面倒な仕事を任されることもあったが、上司や同僚とその都度真摯に向き合い、解決していった。
 人生とは、こうして緩やかな起伏を楽しみながら、穏やかなアンサンブルを楽しむものなのだろう、と彼女は思っていた。児相に異動をするまでは。
 児童相談所に異動になったと知った親は、言葉を失った。同僚は哀れみの言葉をかけた。上司はまるで死の宣告をするかのように、辞令を伝えた。
 免罪符は、「やりがいのある仕事だから」。
 だが、彼女の調弦はそれほど柔弱ではなかった。彼女は必死に戦った。職場環境にも、労働環境にも、同僚の精神状態にも、そしてなにより、日本の親子関係の現実と。
 するといつしか彼女は、やりすぎと煙たがられるようになった。押し付けがましいと公然と罵られるようになった。上司にはこうまで言われた。
「犬になれ、余計なことはするな」
 『アンサンブルは調和ですものね。私が悪かったんですね』と、手紙にはしおらしく書かれていた。でも彼女はまだ弓を置けないでいる。
 『私が悪かったんでしょうか、まだ分からないんです』
 そう、手紙は締めくくられていた。

 そのメールが私に届いたとき、間違いメールと思って疑わなかった。メールは、『イヤッホーイ』という言葉か音か分からないもので始まっていた。彼女は今、夜の街で働いているそうだ。
 早くに子供ができたとは、聞いていた。すぐに子供の父親と別れたとも聞こえてきた。この国で女性ひとりで子供を育てるのは、至難の業だということは、誰でも知っている常識だ。
 その彼女から、今になってメールが届くとは驚きだった。メールは一時期に集中的に何通も送られてきた。毎度、意味不明な掛け声で始まるのが常だった。文面は陽気で諧謔的で、とりとめがなかった。子供の不意な言葉や仕草が綴られていて、微笑ましかった。
『黒猫のタンゴが好きなんですよ、ウケない?』
『この間、手書きの表彰状くれたの、生まれてはじめてもらった笑』
 私の返信には、決して返事はなかった。それは一方通行の、壊れたレコードのようだった。
 彼女からのメールが、私が今日という日を設定した、そのきっかけと言ってもいい。
 人はなにか、ほんの些細ななにかでいい、なにか寄り掛かれるものがなくてはいけない。
 それは最後に紹介する彼にとってもまた、非常に重要なことだった。
 彼は、まる5年、実家の自室から出ていない。

 引きこもり、と世間では言うのだろう。

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