小説

『未完』渡辺鷹志(『蜜柑』)

 私のほうがあせって落ち着かない。
 彼女は荷物から何かを取り出して私の前に差し出した。
 それはみかんだった。
「ありがとう」
 と言って、彼女はみかんを渡すとニコッとした。
 彼女の純粋な笑顔。橙色の髪。そして、同じく橙色のみかん。
 私はその画に見とれて固まってしまい、何も言葉を返すことができなかった。

 電車が駅に着くと、彼女は列車を降りてそのまま歩いていった。
 私はその間も、彼女がみかんを渡した瞬間のさっきの画がずっと頭の中に残っていた。
 帰り道、私は彼女からもらったみかんをずっと眺めていた。

 ステージに立つ彼女に多くのファンから歓声が上がる。
 きっとかなりの練習をして身につけたであろう洗練された歌とダンス。その一方で、あの頃と全く変わらないまっすぐで純粋な笑顔。
 彼女はもはやアイドルとして完成していると言ってもいいかもしれない。
 いや、彼女はこれからもっともっと成長し、たくさんの人々を魅了していくだろう。
 彼女はまだ完成していない。
 彼女は今、私の目の前で、いや多くのファンの目の前で歌い続けている。

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