小説

『だーださまの憂鬱』網野あずみ(『ダイダラボッチ伝説』)

「家の屋根に登って日向ぼっこをしていると、遠く南の空に子犬のような入道雲が湧き上がるのが見えたんよ」
 コトハは公園の築山の上に立ち、南の空を指さした。子供たちもつられて空を見る。
「しかし、しかし、それは三回呼吸する間にむくむくと成長し、二本足で立ち上がるとな、空を覆いつくすように両手を広げ、よっこらしょと山をひとまたぎ……。あれ? 雨だ!」突然の夕立。
「みんな、今日はここまで」
「お姉ちゃん、つづけなよ」
 目の前で一斉にカラフルな傘の花が開いた。何と用意のいいガキたちだ。
「いや、ダメダメ。おうちに帰りなさい。言うことを聞かないと、大入道に踏みつぶされるぞー」っと一歩踏み出した途端、見事に足を滑らせ、仰向けに倒れた。
 やってしまった。恐らく背中は泥だらけ。花のJKが大股開いて……。
 情けなさに泣きたくなりながら雨に打たれ続けるコトハの顔を、子供たちがのぞき込んだ。
「お姉ちゃん、つづけていいよ」
「…………」

 大学の大講堂の最上段に席をとったコトハは、プログラムの演題を眺めながら、あくびを噛み殺していた。せっかく高校の授業を休んできたのに……。
退官記念講演『山窩における精霊崇拝的な要素と立山伝承について』
 意味不明、漢字も読めない。
「おじいちゃん、緊張しているのかしら」右隣に座る母がそうつぶやいた。
「もともと声が小さいからね。あの人には立派過ぎるのよこの教室」左隣に座る祖母がフンと鼻を鳴らした。
間に挟まったコトハは首をすくめる。
 今日はこの日で大学を退官する祖父にとって、教員生活最後のとても華やかな場になるはず、だったのだが……。
 階段状の広い教室はスカスカ。おまけに、マイクを通しているのに祖父の声はボソボソ。教室全体に気だるい空気が漂っている。引退の花道にと用意された大講堂も、祖父の人気のなさを際立たせただけだった。
 教壇の前、最前列にゼミ生らしき5人が親衛隊のように並んでいる。その他には、携帯に夢中な生徒が数人、堂々と漫画を読んでいる不届き者がひとり、爆睡しているのが数名。コトハの位置からよく見える。
 だーださまの話をしてくれると思ったのに……。
 民俗学の研究者であり、研究以外に趣味もない祖父が、孫のコトハを寝かしつけるために毎晩繰り返し語ってくれたのが「だいだらぼっち」。土を運んで日本の名だたる山を作ったり、足跡が湖になったりという大入道の豪快なお話。あまりにスケールが大きすぎて、想像すると眠れなくなった。

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