小説

『だーださまの憂鬱』網野あずみ(『ダイダラボッチ伝説』)

 何となく事情が呑み込めてきた出席者が、次々に携帯を手にメールを打ち始めた。観客を増やすつもりだ。写メをとってSNSにアップしようとする輩まで現れた。という間もなく、大講堂の出入り口に早くも人影が……。大学生というのはそんなに暇なのか。授業に縛り付けられている高校では考えられない。
「ねえ、おばあちゃん、帰ろう」「そうですよ、お母さま、帰りましょう」
「あなた方は、黙って聞いてなさい。今、あの女の化けの皮をはがしてやるから」
 ああ、おばあちゃんもマイクを外さないと、内輪の話が丸聞こえだ。
 化けの皮をはがすという祖母の過激な言葉を聞いて、最前列の親衛隊から自分たちの先生を心配する悲鳴が上がった。
「ちょっと、そこの眼鏡の女!」
 宣戦布告直後の先制攻撃か。
 壇上を見ると、眼鏡の女が呆然としている祖父に一礼をして、握り締められていたマイクを祖父の手から引き剥がすところだった。こんな状況においても、眼鏡の女はとても冷静に見えた。
「アーアー、テストテスト」聞こえてるよ、という会場の声。「ただいま、眼鏡の女とご指名をいただきました、高峰でございます。ひと言、ご挨拶を申し上げます。わたくしは、確かに眼鏡もしておりますし、女でもございます。それは正しゅうございます。しかしながら、先生からご紹介いただきましたように、わたくしには高峰フジ子という名前がございますので、ご承知おきを」
 おお、あくまでも冷静かつ丁寧。その丁寧さは慇懃無礼という言葉を思い起こさせる。その時、誰かがふざけた声を上げた。「ふーじこちゃあーん」。高峰フジ子はその声に向かって、軽く会釈をした。ここでも余裕を見せている。
 さあ、どう出る、ばあちゃん? 
「あんたの名前なんて、どうでもいいの」高峰フジ子の挨拶を一刀両断!
「あーあ、本当にね……、本当に駄目な亭主ね、あなたって。若い頃から、研究しか取り柄がなくて、不器用で、身の回りのことを世話してあげなければ、ステテコひとつ満足にはけないんだから」ばあちゃん、それは言い過ぎだろう。じいちゃんがひとりでステテコはくのを見たことあるから。しかし、自分が正当な妻の座にあることをアピールし、相手には見えない日常の様子を提示することで優位に立つ。これは高等テクニックだ。
「あなたはね、この女に騙されているんですよ」
 さあ、どう返す、高峰フジ子?
「おいたわしいです」ハンカチで目頭を押さえた。「民俗学一筋の立派な研究者である先生に対して、あまりなお言葉。取り柄がないとか、不器用とか、先生を尊敬しているわたくしには、考えも及びません。先生は、ひとつのことに集中すると、周りが見えなくなるだけなのです。研究者にはよくあることですから。わたくしは、そんな先生が研究に没頭できるように、ずっと支えてきたつもりです」
 コトハは思わず頷いてしまった。少し世間離れしたところはあるけれど、コトハにとってはやさしい祖父なのだ。観客も同様に頷いている。
 ステテコを持ち出したのは失敗だったかもしれない。形勢逆転。
「支えてきた? 何を、偉そうに!」祖母がいら立っているのが分かる。「研究とか調査とか言いながら二人で旅行して、気楽なもんよね。こっちはね、あんたたちがいちゃいちゃと楽しんでいる間に、ひとりで家を守ってきたの。夜中に子供が熱を出せば、おんぶして救急病院に駆け込んだわ。40年! 40年間家庭を支えてきたのよ。支えるというのは、そういうことを言うの。軽々しく口にしないでちょうだい」

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