小説

『例えば1枚の絵のように』菊武加庫(『雁』)

「うん。でもなんとなく――もういい。明日はっきりさせるから。ありがとう」
 麻衣はごしごしとハンカチで煤を落とそうとしたがうまくいかない。
「やめた。帰ろ。一緒に帰っていい?」
「かまわないけど」
 怜奈はそう答えたが、私は途端に憂鬱になった。怜奈は知らないのだ。麻衣の独善的な性格に、由果はいつも振り回され、傷つき、我慢していた。怒りを伝えるのは難しいから黙っていた。それが歪んだ形になったのだろう。
 カバンを拾って麻衣にお礼を言われて、だけどこれでよかったのか。由果の立場を思うと、なんだか良いことをしたとばかりには思えないのだった。勿論カバンがあのまま燃やされてよかったわけでもないが。
 なけなしの小遣いでパンを買って、結局怜奈の家に3人で向かった。
 とりとめのないことを話しながら歩いていると、坂の途中にハスミくんが立っているのが目に入った。すれちがう一瞬、彼の目は怜奈を横切りはしたが、次の瞬間にはもう何の色も失くしていた。
「5組のハスミくんだったね。やっぱり近くで見ると迫力の美形だよね」
 麻衣が軽口を叩いたけど、誰も反応しなかった。
 それからウッドデッキに腰かけて他愛のない話をしたが、私はどことなく上の空で、パンに齧りつきながら、由果の気持ちを思い、ハスミくんの目を思い出していた。
 動悸がした。実は私はなぜかハスミくんが、どこかで怜奈を待つような気がしていたのだ。
 怜奈の家を後にしてからも、気持ちが晴れなかった。由果にしても私にしても、黙っていては解決できないことがある。
 別れ際、「由果ちゃんの気持ちも聞いてあげて。今日のこと、私は誰にも言わないから」とそれだけをやっと言葉にした。 麻衣は一瞬釈然としない目を向けたが、すぐに「わかってる」と言って背を向けた。

 帰り道にハスミくんの姿はなかった。
 そして翌日には、彼の姿はもう学校のどこにもなかった。
 あの日、給食がミネストローネじゃなかったら、焼却炉で由果の姿を見かけて教室に戻らなかったら、どうなっていただろう。
 小さな偶然が重なって、ハスミくんは怜奈に声をかけられず、その後の2人には少しの縁も残されていなかった。恐らく今後も。

 実は私の話は、私の記憶だけで作られた話ではない。
 半分は私の記憶、1割は民生委員の田中さんの話だ。当時母が地域の役員をしていて、時折田中さんが訪ねて来た。私はたまたま話を耳にし、ハスミくんの事情も、もうすぐいなくなることも、先回りして知っていた。
 そして残りの4割はハスミくん本人から、ずいぶん後になって聞いた話だ。その3つの話を張り合わせて、あのとき分かっていたことと後で知ったことを合わせれば、例えば1枚の絵のようにつながるのだ。
 ハスミくんとは大人になって、とある事情で再会した。
 彼はあの日の帰り道、3人で歩いて来た私たちを見て、諦めて帰ったという。
怜奈が1人だったとしても何を言えたかわからないが、最後に言葉を交わしたかったとハスミくんは言った。
「今考えるとストーカーだよね」
 大人になった彼は照れるように、それでいて苦いように笑った。

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