小説

『例えば1枚の絵のように』菊武加庫(『雁』)

 あのころ、私は彼の気持ちも事情も知っていながら、意図的に怜奈に教えなかったが、未だにそのことを誰にも言えずにいる。

 再会したといっても、彼と私がつき合ったとか、そういうことは一切ない。お互いにそういう相手ではない。
 幼い私が大切だったのは怜奈だけだ。
 得体の知れないほど美しい少年が、怜奈を連れ去るのではないかと、不安で仕方なかったのだ。
 気持ちは今も昔も変わらない。ただ大切な相手の幸福を願える、その程度の大人にはなれた。
 怜奈はごく普通の家庭を築き、その姿を見るのが私自身の幸福だと思えるようになった。私は結婚することはないだろうが、そのことを不幸とも思わない。遠足のバスは、一人掛けが気楽で好きなのは、今も変わらない。
 あの日の偶然の重なりには私の思惑が加えられていたが、きっともっと大きな手で操られた偶然だったのだろう。
 大人のハスミくんと最後に会った日に見送った背中は、あの大雨の日の美しい背中と変わっていなかった。
 傘を手渡したあの一瞬だけを除いて、怜奈とも私とも交わらない道を行く。そんな遠い背中だったとやはり思うのだった。

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