義母の言葉に男が頷く。夕食では彼女の料理をたらふく食べさせてもらったのだから、一晩ぐらい何も口にできなかったとしても問題はないだろう。朝になるまで我慢すればいいだけの話だ。そう思った彼は最後にコップ一杯だけ水を飲み、仏間から彼女の骨壺の入った箱を持ち出して部屋に入った。
妻の部屋は、庭に面した八畳ほどの和室だった。男が襖を開ければわずかな井草の匂いが彼の鼻をくすぐった。部屋の中央には足の畳めるちゃぶ台があり、背の低い棚が壁にくっつくようにして置かれている。彼女が大学に進学するときに置いていったものがそのままになっているらしく、棚の中には熊のぬいぐるみやピアノの教本が整頓されて入れられていた。
男はしばらく、妻の残していった香りを抱きしめるように部屋の中を歩いた。押入れを開けて布団のカバーの柄を見、壁にかけられた賞状の文字を読み、電池が切れて動かない時計の色を眺めた。彼女はいったいここで、どんな少女時代を過ごしたのだろう。何を思ってこの田舎を出て音楽大学に行こうと思ったのだろう。そして、どうして自分と寄り添って生きていこうと思ってくれたのだろう。障子の隙間から漏れ出る青白い月明かりに照らされる骨壺を見つめながら、男は妻と出会ってから今までのことを思い返した。
男の妻、平坂小夜子は都内の音楽大学の声楽科に通う女子大生だった。男は田舎から都内にある総合大学の法学部に進学し、友人の勧めで他大学と合同のアカペラサークルに所属していた。大学は違えども同じサークルだったという縁で二人は出会ったのだ。
サークルの中でも、小夜子の声は他の人間よりも抜きんでて美しかった。声楽科に通うぐらいだからそういうものだろうと言えばそれで仕舞いかもしれないが、男は小夜子に出会って初めて、歌うことの歓びと歌のもたらす心の震えを知ったのだった。
表現を生業としようとする者の常に漏れず、小夜子の心は並の人間よりも脆く壊れやすかった。時には刃となって人を傷つけ、時にはその純粋さで誰かの心を掴むその儚さを、男は愛した。情緒が不安定で面倒だとはちっとも思わなかった。それだけ彼女の声と存在に惚れこんでいたし、そうした繊細さこそが彼女の紡ぐ歌声の美しさを作り上げているのだと知っていれば、心の波が動くままにころころと表情を変える子猫のようなその顔が、愛おしくてたまらなかった。
大学を卒業してからも、小夜子は歌を続けた。その才能が広く世に認められることがなくとも、仕事が子供相手の音楽教室しかなかったとしても、彼女は己の心を音に乗せることができればそれで十分幸せなようだった。男も、そんな彼女が傍にいて、時々ソファに座って二人でハミングをしているだけで、心の真ん中が温かい気持ちで満たされていった。
妻との記憶を振り返った男は骨壺の蓋を開け、彼女の遺骨を見つめる。奇妙な環のような形をした小さな骨が一番上に収められ、月の光を浴びて薄く輝いていた。男は静かにその骨を手のひらに移し、その重さと形を愛おしむように視線で撫でる。喉仏と呼ばれるその骨が本当に声帯の部分に位置しているわけではないことは男も知っていたが、ここから彼女の美しい歌声が作られていたのだと思うと、骨壺に収められた他の骨よりもひときわ特別に思えてならなかったのだ。