小説

『Don’t eat me?』鍛冶優鶴子(『黄泉平坂の話』『古事記』)

 男は手のひらに乗せた骨を眺めながら、ある一つの記憶が蘇ってくるのを感じた。
 それは男の祖父が亡くなったときのことだ。通夜と葬式を済ませ、東京へと戻って落ち着いてきたころに、男は小夜子にこんな話をしたのだった。
「うちの地域では、お葬式の後に死んだ人の骨を食べるんだ。食べるっていうか、噛んで飲みこむんだけど。変わってるだろう?」
 男の生まれ育った田舎では、大抵の人が先立った妻や夫の骨を噛んで飲み下していた。その影響で骨を飲み下すことで愛する者と一緒になるのだという考え方は、男の中に小さい頃からなんとなく根付いていたのだ。
 だがこうして大人になり、この話はそうした風習のない地域の出身の人間に聞かせるにはあまり向いていないものだと分かってからは、男はその話を他人にすることを避けていた。けれども小夜子は、うちも変な風習があるから変だとは思わないと返したあとに、瞳の奥に光をきらめかせながら言った。
「ねえ、私が死んじゃったら、そのときは私の骨、食べてくれる?」
「もしそうなったら食べるだろうね。たぶん」
 男がそう返すと、小夜子はたぶんじゃなくて絶対って言ってと頬を膨らませ、その勢いに押された男はじゃあ絶対にそうするよ、と小指を絡ませて約束を交わしたのだった。
 その記憶を思い出した男は手のひらの上の骨を見つめ、意を決した表情で唾を飲み下した。ここにいる間は何も食べてはいけないと、妻の母に言われたことは頭にあったが、男は最早それを守ろうとは思えなかった。それよりも妻と交わした約束の方が大事だった。庭に植えられた白百合が風に吹かれてざわめき、葉の合間から月の光が差す。その瞬間、男の歯と妻の骨が重なり、小さな音が立ち、そして男の手のひらから一つの影が消えた。

 朝日が昇り、妻の両親に何も食べなかったかと問われた男は正直に、妻の骨を食べたことを告げた。自分の土地の風習で、骨を噛むことによって愛を伝えるのだとも説明した。それを聞いた義両親は複雑そうな表情を浮かべ、柔らかくも厳しい口調で告げた。
「そこまであの子のことを思ってくれているのは私たちも嬉しいけど、望人さん、あなたは生きてるんだから。ちゃんとこちら側に帰ってこなくては駄目」
「この部屋はね、死者の国なんだよ。死者の国のものを食べて無事に帰りたければ何か一つ、君のものを置いていくんだ」
 男は部屋の外に立つ義両親を見上げながら、左手にはめた指輪を無意識に撫でる。この部屋に入る前に、服も財布も鍵も全て置いてきてしまった。つまるところ、彼に残されているのは妻との愛の証であるこの指輪ひとつきりなのだ。内側に男と妻の名が記された、飾り気のない指輪、ただ一つ。
 男は義両親に背を向け、肩を震わせて泣いた。指輪を置いていくぐらいなら、今ここで死んでしまった方がましだとすら思えた。しかしそれを妻が望まないことも分かりきっていて、男は震える手で薬指から指輪を引き抜いて畳の上に置くと、床を這うようにして妻の部屋から居間へと戻った。

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