小説

『息子帰る』鹿目勘六(『父帰る』)

 その日は、就業時間が終わると早々に帰宅し、妻の聖子と共に志乃からの連絡を待った。
 電話が来たのは、夜九時頃であった。
 志乃は、いかにも疲れ果てた調子で報告する。
「お父さん、最悪の状態を脱して少し持ち直したので今から家に帰るわ。兄さんにも心配かけたわね」
「疲れたろう。お前にばかり面倒をかけて。本当に申し訳ない」
 康一は、電話の向こうの妹へ深く頭を下げた。
「でも意識は無いし、呼吸は荒いし、いつどうなっても不思議でない状態よ」
 康一の微かな望みを突き放すような響きがあった。
「週末には、病院に行ってみるよ。志乃も体に気を付けてね」
 康一は、そう言っのが精一杯であった。
 翌日は金曜日であった。康一は、会社の仕事が終わると、そのまま旅行鞄を手に東京駅に急いだ。そして北国へ向かう新幹線に飛び乗った。単身赴任者が自宅へ戻るのだろうか、自由席は混雑していたが、幸いに空いている席を見つけて腰を下ろすことが出来た。列車が緩やかに走り出すと席の前の小さいテーブルに売店で買った缶ビールとツマミを拡げる。
 ビールの苦い味を口に含みながら、ここ両日の何とも言えない想いで過ごした時間からようやく解放された想いだった。やっと父の元へ帰れる、息をしている内に逢えるのだとの感慨が胸を熱くする。
 新幹線が乗り換え駅に着いた時には、夜の九時前だった。そこから更に在来線で故郷の駅に向かう。九時過ぎの列車に間に合った。昔高校へ通学していた懐かしい路線だが、乗車客は少なく車内は閑散としている。
 そして九時半に故郷の駅に降り立った。一面に雪が積もった光景を見て、故郷へ帰って来た実感が湧いて来る。駅前でタクシーに乗り、郊外の病院へ向かう。病院の急患用の非常口から入ると中は照明を落として静寂に包まれていた。地域で唯一の総合病院の長い廊下を通って入院棟へ行き、ナースセンターの看護師に事情を話して父の病室へ急いだ。
 ベットの父は、点滴や血圧を測る計測器等を付けられて横たわっていた。
一週間前に駆けつけた時と同じ様に憔悴した顔を苦しそうに歪めている。目は、薄く開けているが、意識はないようだ。
 康一は、抑えた声で「父さん、帰って来たよ」と呼びかけてみたが、ただ荒い呼吸をするばかりだ。
 あの元気だった父が、すっかり痩せてしまった。乱れた白髪と無精髭は、すっかり老人のものだ。それでも生命の灯を消すまいと懸命に戦っている。
 康一は、父の顔を黙って見ながら不覚にも目から涙が零れて来た。
 父の剛二は、長男の康一を何事にも厳しく育てた。息子を自分を超える男にしたい、との期待が、そうしたのだろう。だが康一は、それに反発し反抗もした。

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