「お兄さん、終点ですよ。」
人の良さそうな物腰で車掌が言う。なんだか随分と不思議な夢を見た。どこからが夢で、どこからが現実か分からなくなってしまうほどに。
無意識で手に力を込めると、伝わってきたのは骨張った彼の体温ではなく、無機質な布の感触だった。隣を向けば彼が座っていたはずのシートにはチェックのマフラーの姿しかない。律儀に畳まれたそれは私が以前誕生日にプレゼントしたものだ。頭をよぎった予感に、心臓がいやな音をたてはじめる。そんな、まさか。でも。
「あの、私の隣に、男の人がいませんでしたか。私と同じくらいの歳の。」
「さあ。車内には、お兄さん以外に誰もいませんでしたけど。」
車掌の言葉が終わらないうちに列車を飛び出した。冬に向かって鋭さを増している風が頬に刺さる。叫んだ名前は白い息になって、夜の空気を濁らせる。
ああ、どうして。一緒に逝こうと言ったのに。私たちの関係を認めてくれない世界なんて捨ててしまおうと、決めたのに。私のことを置いていくのか。彼は、あなたは、ああ。ああ!
名前を呼ぶ。夜が染まる。もつれそうな足をがむしゃらに動かしながら、「怖いか。」と問うた声を思い出した。もしかしたら彼はあの時、私に頷いてほしかったのかもしれない。やっぱり辞めようと、アパートへ向かう電車に乗り直そうと、言ってほしかったのかもしれない。
突然視界がひらけ、一際強い風が吹いた。海についたのだ。空に浮かぶ星々を反射して、水面が嘘みたいにきれいに波打っている。
その波打ち際にポツンと立つ人影を見つけた。彼だ。明かりのほとんどない夜の海で、顔も見えやしないのに、私はそう直感する。彼だ。生きていたのだ、このどうしようもない世界に、まだ。
名前を呼んだ。ゆうらりと、彼が体をこちらに向けた。その姿は頭のてっぺんから足の先までびしょ濡れで、慌ててマフラーで包み込む。俯く彼からはほのかに潮の匂いがする。
「死んでしまおうと思ったんだ。」
誰にも聞かせる気がないような温度で、それでも私の耳に届くように、彼はぽつりぽつりと言葉をこぼした。
「初めは約束通り君と心中するつもりだったさ。本当だよ。でも列車の中で眠る君を見ていたら、怖くなったんだ。この世界から君が消えて、いつか誰も彼もが忘れて、その存在すらなかったことにされてしまうのが。」
「それなら、あなただって。」
「うん。でも駄目だった。僕にはもう、この世界で生きていく勇気なんて、これっぽっちも残ってなかった。」
ごめんと、彼は、幼子みたいに謝罪する。ごめん、一人にしようとして。弱虫で。君と二人で生きていく道を、選ぶことができなくて。
「……私は。」
震える体を抱きしめた。温かかったはずの体は海水と海風のせいですっかり冷え切っていて、どうか私の体温が移りますようにと願いを込める。夢の中の手のひらみたいに、二人の体温が早く、溶け合いますように、と。
「私は、やっぱりあなたと一緒に生きていきたいよ。できるならばこの世界で。」
ふと空を見上げた。街灯もないこの場所では、信じられないくらい沢山の星が輝いている。
中でもいっとうきれいに光を放つ星が目を引いた。きっとあの男の子だ、と思った。青白い光が、賑やかな夜空を、さらに美しく彩っている。
「怖くはないの。」