小説

『逆立ち、たったそれだけのことが』もりまりこ(『双子の星』)

 それから天野とスギナに何かが起こったかもしれないけれど、何も覚えていない。星君のやさしさは、致死量に満たないぐらいの甘い毒だったことも、後になってわかった。

 天野とスギナは違う高校に通った。中学三年まではいつもそばに天野のがいたからその不在にスギナは、なかなか慣れなかったけど。高校になると、人並みに彼女ができたりして段々と天野のことをうっすら忘れそうになるんだと思ってたらそうでもなくて。スギナは天野と逢いたかった。逢いたいのに連絡せずに大学生になっていた。
 そんな3年の夏。天野と再会した。前山が亡くなった知らせを葉書で受け取ったからだった。告別式の場所は教会だった。天野は砂利の敷かれたエントランス辺りで所在なげに立っていた。やっぱり自分がそこにいるのかと錯覚しそうなぐらい天野は変わっていなかった。あの中学の入学式と同じ風情の天野は、「やぁ」ってやっぱり手を振っていた。でもそこに集っていたのは、スギナと天野だけで。前山の告別式らしいタテカンなども立っていなかった。
 顔を合わせてふたり、「またハメられた?」ってハモるように呟いて。ふたりで思いっきり笑った。教会に何気なく足を踏み入れたけど落ち着かなかったからガジュマルの樹の下で話をした。話し方もぽつりぽつりと変わっていない。天野が俺の側にいる。腕のすぐとなりに天野の空気を感じる。そう思うだけでスギナは、こみあげてきた。

 天野は制服のポケットからなにかを取り出した。太陽の光に反射していたそれは、あの日の銀のホイッスルだった。きらきら光るホイッスルと天野の横顔を交互にみた。痛いはずの記憶の証のような銀の笛を今も持っている天野って、ほんとうは強い男だったのかもしれないと愕然とした。記憶を辿るように天野が言う。
 スギナ君がさ、僕の逆立ちの脚をずっと持っていてくれてた時ね。逆立ちは苦手だったけど、世界はさかさまなんだと思うだけで、ちゃらにできそうなことへの希望みたいなものをいつも少しだけ感じていたんだ。
 あの体育館で天野の足首を持って逆立ちしている時に、天野が呟いた<あ、百日紅>って声が甦る。高校に行ってからも大学に行ってからも、彼女とベッドを揺らしている時も、スギナはみえなかった百日紅のこと思い出したりしていた。

 ベランダから見上げる空に、あれから2度目の双子座流星群の流れ星が走った。光る星を見た刹那、部屋の中から床を鳴らす音が聞こえてきた。天野だった。あの日から随分と天野の逆立ちはうまくなっていることを知っているのは、紛れもないスギナだけだった。

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