ミナコさんと出会ったとき、すでにヒロシさんは不治の病を患っていた。そんな別れの宿命を持った二人をヒロシさんの生まれ故郷の伝説が救ったかに見えた。伝説というのは、こうだ。
昔、貧しい漁村に病気の母親と二人きりで暮らす若い漁師がいた。島には昔から人魚の伝説があり、人魚の心臓を食べれば万病が完治するといわれていた。若者は藁にもすがる思いで嵐の翌日に人魚が現れるという島の反対側に行く。しかし若者はそこで美しい人魚と出会い恋に落ちてしまう。若者は愛する人魚を傷つけることができない。すると、人魚は私の爪を食べれば人間が人魚になれるという秘密を明かす。ただし、人魚となった人間は一年後に足が腐り、死んでしまう。若者は、恋人と母親を救うために、人魚の赤い爪を食べて人魚になる。そして人魚になった体で母親に会いに行く。心臓を母親にささげるために。しかし若者は人魚にとめられる。二人は、深く愛し合い、互いを失うことはできなかった。母親は死に、一年後、若者は人魚に看取られて海に消えていく。
ヒロシさんはミナコさんに会ったとき人魚に会えたと思ったのだという。二人は結婚したが、その一年後ヒロシさんの白血病が進行した。病状は急速に悪化し、余命三か月と診断されたある日、ヒロシさんはベッドのうえでミナコさんにこう言った。
「せめてあと一年だけ君のそばにいたい。あと一年でいいから君を見守りたい」
ヒロシさんはそういうと、ミナコさんの爪に赤いマニキュアを塗った。そして赤く染めた長い人魚の爪をヒロシさんはかじったのだという。話し終わるとミナコさんは深いため息をついた。
「ほんとうに寿命が一年もったのよ」
「すげえ」
真冬が興奮気味に言った。
「じゃあヒロシさんは、人魚になったってこと?」
私の質問にミナコさんはさみしげに微笑んだ。
「あの人は、人魚っていうより、やっぱり漁師って感じだったと思う」
そういうミナコさんだったが、私は一度も海に入るのを見たことがない。
その夏、ミナコさんは私たちが海に入っている間、浜辺に大きなパラソルを射したままその下から出てこようとはしなかった。私がしつこく海に誘っても返事はいつも同じだった。
「水につかると、足が人魚に戻ってしまうのよ」
ミナコさんはそう言って微笑んだ。白くてつばの広い帽子がまぶしかった。
「本当に魚かもしれないな。」
真冬が私の横でぼそっと言った。
二度目にミナコさんが泣いているのを見たのは、ひいばあを火葬したときだ。
太くて灰色のそびえ立つ煙突のある灰色の建物に入ると、猫背になった喪服の人々の列が見えた。その列の奥に棺桶に入ったひいばあがいた。白い菊で棺桶をいっぱいにしたあと、黒い皮のハンドバッグをミナコさんが棺桶の中に入れた。それは生前、ひいばあが愛用していたもので私たちに小遣いをくれるときや、外出するときに肌身離さず抱えて、入院しているときもベッドのそばに置いてあったかばんだった。かなり年季が入っていて、ひいばあそのものといっていい。
「あれも燃やしちゃうんだな」