小説

『ミナコさんの思い出』明里燈(『人魚姫』)

夜の闇は網戸の向こうでますます濃くなり、ミナコさんのストッキングの下の赤い爪が喪服の群れの中で浮きあがったように目についた。ミナコさんがひいばあの後を追うようにして交通事故で亡くなったのはそれから二週後のことだ。

その夏はことさら蒸し暑かった。
セミの声は街じゅうを埋め尽くすように響いていて、それは木の上ではなく地の底からわいてくるような気がした。
ミナコさんのお葬式は綺麗な海のある町で行われた。塩の香が葬儀場まで漂ってきて、体中がべたべたした。
お葬式はひいばあと比較にならないほどこじんまりとしたもので親戚が少し集まっただけだった。それはひいばあの五分の一の長さしか生きていないミナコさんの人生を表しているようで悲しかった。
棺桶に寝かされたミナコさんはやはり美しかった。けれど、そのときばかりは真っ赤な爪は急いで落とされたように白くなっていた。湿気と暑さのせいでミナコさんのからだもしっとりとぬれて、今から炎に焼かれてしまうのが信じられなかった。ミナコさんの亡骸は、海に流されるのが一番のような気がした。ミナコさんの亡骸をみても、涙が出なかった。海辺の斎場につづく長い海辺を走る電車に揺られながら、私は一昨年に真冬と訪れた透き通るような夏の海を思いだしていた。今回もその終点の駅でミナコさんが当たり前のように待っている、それ以外の風景がどうしても思い描けなかった。
亡骸を見れば、気持ちが現実に追いつくと思ったのは間違いだった。
どうしてだろう。なぜミナコさんは死んでしまったのだろう。そのことだけが静かに、私の中で渦のように生まれては消え、浮き上がっては消えた。
「人は死んだらどこに行くんだろう」
私の小さな呟きに真冬が顔をあげた。
「ミナコさんに限っては、きっとあの海だろうね」
その瞬間、私の脳裏に透き通るような水面を蹴って、海に帰っていく人魚のミナコさんがよぎった。

はじめてミナコさんが泣いているのを見たのも夏だった。私は小学五年生だった。ミナコさんの旦那さんが亡くなったのだ。
旦那さんのヒロシさんのお葬式もこの海辺の町で行われた。そのときミナコさんはただ静かに泣いていた。それは泣くというより涙がこぼれるといったほうがふさわしかった。泣くというのはもっと激しいもので、それは抑えきれない気持ちだ。しかしそのときのミナコさんの静かな涙のせいでそのお葬式はどこか遠い世界の出来事のように思えた。
目の前で旦那さんの遺影を持っているミナコさんはいつもより美しかった。
ヒロシさんが亡くなってはじめての夏、ミナコさんは私たちをH県の海に連れて行ってくれた。
きらきら光る水面が深くなればなるほど、濃い青色に変わるその海で私と真冬はおまじないを教わった。
ミナコさんのおまじないはとても悲しい。それは、亡くなった旦那さんとの強い思いがこもったおまじないだった。
ミナコさんは二十歳のとき、瀬戸内海の小さな島の漁師のヒロシさんと結婚した。ヒロシさんがミナコさんに一目ぼれしたのだ。そんな二人を今も強く結びつけているのは赤い糸ならぬ人魚の赤い爪だった。

1 2 3 4 5