走りますか? 走りましょうということで、篠原と秋葉は走った。
近くの駅が、巨大迷路のような趣になっている。工事中なので、区切られたスペースに沿って歩かないと、駅にも店にもたどりつけない。逢魔が時と呼ばれそうな時間帯。駅のコンコースではもう雨が止んでいた。止んでいるというより雨の気配すらなかった。そこでは、何人かの高校生らしき女の子たちが、錆びた欄干の側で、空に向かってスマホをかざしていた。
つられて空をみる。
満月がうっすらとでていた。満月をみんながいろいろなアングルで映している。背中からしか彼女達のことはみえなかったけど。なんとなく真剣だった。
いつだったか、路上カメラマンがシャッターを押す行為は、ほとんど放電に近いとツイートしているのを見たことがある。彼女たちの放電を見ていた。ありとあらゆる音の洪水や行き交う人達の混沌としたノイズに近い会話の中で、たぶん彼女たちは、いちばん静かなたたずまいをしているような気がした。そしてそれは、あ、満月って思って写した感じじゃなくて、なんだか、ほんとうにまっすぐゆっくり時間をかけて月を狙っているようにも見えた。後ろに続くサラリーマンらしき人たちは、月ではなくてもっと、ちがうものが彼女達だけに見えているんじゃないかという感じで、なんども空と彼女達を振り返りながら確かめる。でも、そこには、まぎれもない満月しかなかった。その時、篠原は思ったのだ。摘果もほんとうはこういう他愛のなくてかけがえのない時間が欲しかっただけなのに、それを得ることができなかったのかもしれないと。その時、秋葉は「あ、待ち合わせの彼女さんいいんですか」って重大インシデントに気づいたかのように問いかけてきた。篠原も同時に摘果のことを思っていた。篠原は去り際に、なんとなく秋葉と連絡先を交換した。
篠原は待ち続けていないかもしれない摘果の元へとリバースした。路上を歩みながら彼女達が見上げていた満月をみあげた。たぶん篠原以上にすさまじい競争や喧騒のなかで生きているそこを歩くみんなのこころの中に、月の光がそっと分け入ってゆくような、そんな感覚に陥った。
雑踏は世の中でいちばん嫌いな場所だけど、その渦中に巻き込まれているとなんとなく倦む気持ちと同じぐらいの熱量を感じて、歩いているうちに気持ちが戻ってくる場所でもあった。おわることのない日常が、いまもそこにあることへの安堵感なのかもしれない。
摘果の待っているかもしれないビル群が見えてきた。
抒情でもなんでもない季節外れの夕立みたいなレインゲート地帯を秋葉と走っていたことが、遠い昔のように思えた。
摘果の待つビル前のアスファルトは、どこも濡れていなかった。
雨の日に何かを盗みたくなるあの癖は、直君で打ち止めだから。そんな言葉を信じるのもいいかもしれないと、篠原はビルのゲートを開けた。