小説

『呼ぶ女』中山喬章(『オオカミ少年』)

 また、半年ほど前にはもっと若い、四十代くらいのスーツ姿の男を何度か見掛けた。
思えばこの頃から、五〇九号室への訪問者が目立ち始めたのだ。
 訪問者リストを閉じて椅子に腰を掛けなおしたとき、額縁に入った大きな絵を抱えた捜査員がマンションの正面玄関を出ていくのに気付いた。
 この絵には見覚えがあった。
 具体的な何かが描かれているわけではない。様々な色が絡まり合い渦を巻いている。渦の外縁に近い部分は、ピンクや黄色などの明るい色が用いられているが、内側へ向かうにつれて徐々に色が暗くなり、中心部では混沌とした何かが蠢いているように感じられた。
その混沌とした何か……、黒のようで黒ではないような色に魂を引き込まれそうになった厭な感覚を私ははっきりと思い出した。
「この絵、何に見えます? 管理人さんはどう思います?」
 記憶の中の「呼ぶ女」が私に問い掛けてくる。
 そう、私は過去に一度、佐倉香の部屋を訪れたことがあったのだ。
半年ほど前だろうか、蛍光灯を付け替えて欲しいと頼まれ、私は脚立を持って五〇九号室へ向かった。
 佐倉香の部屋は美しい額縁で飾られた絵であふれかえっていた。五十以上はあったと思う。すべて佐倉香が描いたものだった。
 蛍光灯の付け替え作業はすぐに終わったが、佐倉香は部屋から立ち去ろうとする私を引き留めるかのように渦巻きの絵を見せ、感想を求めてきた。
 私がどう答えたのかは覚えていない。当たり障りのない感想を言って、急いで部屋を後にした。
その絵に対してあまり良い印象を抱かなかったのは事実だが、男である私が女性の部屋に長居することを避けたかったのだ。
 その後、佐倉香の死から時が経つにつれて様々な事実が明らかになった。
 五階の住人、つまり彼女と同じ階に暮らす者の大半は佐倉香の部屋を訪れたことがあったそうだ。
 蛍光灯の付け替えを手伝って欲しい、ベッドの移動を手伝って欲しい、素早い動きをする茶色い虫を退治して欲しいなど、部屋へ呼び込む理由は様々だが、用件が済んだ後は皆決まって絵の感想を求められたという。
 佐倉香が亡くなる半年ほど前に部屋を訪れたスーツ姿の男たちは、いずれも美術鑑定士であることが分かった。
彼女は自分の描いた絵に一体どれくらいの価値があるのかを知るために鑑定を依頼したそうだ。
 しかし全く値段が付かず、今度は古美術商や質屋を呼び見積もりを依頼するが、やはりほとんど値段が付かなかったそうだ。
 初めてまとまった金額が提示されたのは、佐倉香が引っ越し業者に見積もりを依頼したときだった。もちろんこの「見積もり」とは引っ越した場合にいくらかかるかの見積もりだ。この頃の佐倉香は既におかしくなってしまっていたのだ。
 何度も何度も見積もりに呼び付けるが、一向に引っ越す気配はなかったため、佐倉香はこの地域一帯の引っ越し業者のブラックリストに載っていたらしい。

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