そんなことを考えると、姫歌は自分の口からあふれだした大量の泡が空気に浮遊していくのが見えるのだった。
唯一息ができるのが本を読んでいるときだということに一度離れてから気が付いた。いや、と姫歌は自分の頭の中に待ったをかける。息ができるという表現は相応しくない。海にもぐっているような感覚。母なる海、というがまさにその通りだった。自分は海の中に抱(いだ)かれている。ついこの間までは地上にでていた。姫歌は地上で息苦しさを覚えていたのだ。
私は再び海に戻ることができたのだ! それをあの男子生徒に伝えたくなった。紙に書いて伝えようと机に座る。この学校は学習室というものが数か所あるからか図書室で勉強をする生徒は少ない。それどころか見渡すかぎり一人もいない。
本を探しに棚を見てまわっているときは、その間隔が狭くて圧迫感があるからか二人きりという感覚がなかった。しかし、この開かれた場所に座ってみると案外図書室は広い。まっすぐ前を見ると男子生徒の横顔を見ることができた。こちらを見ていないのをいいことに姫歌はその横顔を観察する。しばらく経ってから男子生徒が黒目だけでこちらを見た気がして姫歌は慌てて下を向く。そして目をやった先の広げた真っ白なノートを見て、自分がいかに馬鹿げたことをしようとしていたかに気が付いた。こんなことを伝えても気味悪がられるだけではないか。
ノートと筆箱を鞄にしまい立ち上がろうとしたが、座ってからすぐに席を立つのも怪しいかと思いそのまま席にいることにする。幸い、本棚から一冊の本を持ってきていたのでそれを読むことにした。子どもが表紙の単行本で、軽く中身を見たかぎり冒険ものらしかった。
「あの、もう閉めますけど」
上から降ってきた声に驚いて顔を上げる。男子生徒が姫歌を見下ろしていた。彼の向こう側に見える壁掛けの時計を見ると、いつのまにか一時間が経過していた。「ごめんなさい」と声をだそうとして今の自分にはそれができないことを思い出す。
一週間前のことだった。朝起きていつもどおり母親に挨拶をしようと口を開いた姫歌は、自分の喉が震えないことに気がついた。それから声が出る気配は一向に訪れないまま今を迎えている。日を追うごとに、声が出ないことよりもそれにさほど不便を感じていないという事実に姫歌は打ちのめされていた。しかし今、あの朝の思いが蘇っている。不安と恐怖。そしてその朝には抱かなかったほんの少しの安心感。声がでなくなったことに対するマイナスな気持ちが蘇ったことへの安心感だった。
「あの、知ってます。一組の宮城さんですよね。声がでなくなったっていう」
男子生徒の言葉に姫歌は目を見開いてからぎこちなく頷いた。他のクラスの生徒にまで自分の噂が伝わっていたことに驚いた。それと同時に安心感はどこかにいき、不安と恐怖だけが留まった。声がでなくなった女子生徒のことをみんなどう思うのだろうか。友人達は優しくなった。前よりもずっと姫歌のことを気にしてくれている。その安堵感から他に目が向いていなかった。他の生徒は? この男子生徒は?
「すみません。だから何も言わなくても不審に思わないとか、そういう意味です」