小説

『未完』ノリ・ケンゾウ(『猿面冠者』太宰治)

 さて、人々を唸らせるような大傑作というものを、オサムも書いてみたいと思っている。え? 何を書くのか? そんなもん、小説に決まっているだろう。
 奇しくもオサムは、文豪・太宰治と同じ名を持ち、小説家を志している。しかしオサムが本当にオサムという名なのかどうかは、なんだかはっきりとしていない。オサムがオサムと呼ばれているのは、小説家を自称し、太宰治に相当影響を受けていると思われる口ぶり、髪型、などから周りがオサムをオサムと呼ぶようになったからで、本名は違うかもしれない。しかし今さら改まって尋ねられないし、誰もどうにかしてまでオサムの本名を突き止めようとは思わない。それからあともう一つ、オサムがオサムと呼ばれている理由に、オサムのSNSのプロフィール写真問題があり、というのも、頬杖をつき虚ろな目線でモノクロ写真の自画像で映るオサムは、明らかに太宰治を意識しているというのが分かる……というより、もはやSNS上のニックネームもなんなら「オサム」と書いてあるので、それが周りに言われてからオサムと自称するようになったのか、周りに言われる前からずっとオサムを自称していたのか、もっと単純に本名がオサムなのかは、もう誰にも分からなかった。皆がSNS上だけ知り合いだったし、オサムよりもっと得体の知れない、よく分からない名前の人も沢山いる。それに比べればオサムに感じる違和感は、さして大きなものではない。
 さあこの、胡散臭い男であるオサムが小説を書いたらどのようになるだろうか。だいいちに考えられることは、オサムは何も書けないだろうということだ。そう言われれば、オサムがよほど無能か、怠け者か、という話になるが、実はこの無能は彼のせいではない。入り組んだ構造をとるこの小説の中で、オサムは適切な動きを果たしているだけで、別にオサムがまったくもって無能なのでも、怠け者なのでもない。夢の中で夢を見るような、幾層に重ねられた虚構の中で、オサムは小説を書かされているわけである。ああ、しかしこの話自体、すでに破綻しかけているようにも見えるが……彼も私もオサムも乗りかかった船、続けるほかはなかろう。
 オサムが小説を書き上げられないのは、彼のいけない癖のせいにある。オサムは小説を書く前に、これから自分の書く作品が傑作だと確信することができる。傑作が書けると自分で分かっていれば、こんなに簡単なことはなかろうと思われるが、オサムにとってはそこから先が何より難しい。なぜか? それは彼の執筆風景を眺めていればよく分かる。
 例えばオサムの頭の中に、二人の男女の恋愛ストーリーが浮かび上がる。二人には壁がある。男はそうだな、前科持ちで、貧乏で、本読みの青年にしようか。前科というのも、まだ十五のときに空腹で死にそうになりお金欲しさに盗みを働いた、その一回きりである。性根は悪くない。人生に何も希望が見出せず、彼にとっては本を読んでいるときだけが救い。少し古いか、まあいい。古いかどうかという言説自体が、リアリティの否定だ。オサムはリアリティを志向する。それが小説を書くたった一つの意味だと言う。自分は一作も書き上げたことがないのに。ああそうだ、それで女の方は、政治家の娘としておこうか。決して交わらない人生を歩んでいそうな二人が偶然に出会い、恋に落ちる。降りかかる数々の苦難にも負けず、二人は互いのことを深く知り、互いの内面を心底好きになり、あらゆる障壁を乗り越えた末に結婚する。そこで大団円。オサムはここまで想像した後で小説に取り掛かる。題は「届かぬ便り」ということにしようか。題を決めると、オサムはなんだかアイデアが湧き出てくるような錯覚を覚える。これなら書けるぞ、とオサムの筆が進んでいく。

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