小説

『未完』ノリ・ケンゾウ(『猿面冠者』太宰治)

〈男は朝、目を覚ますと、鏡ふらふらと立ち上がり鏡を少しだけ見て、伸びた無精ひげを剃った。時計を見る。六時十五分。今時珍しい、二つ折りの携帯電話を開きメールを確認し、今一度今日の勤務地を確認する。最寄りは横浜の百貨店。催しの什器を搬出入の仕事をするらしい。着替えを済まし、一冊の文庫本と携帯電話だけをポケットに差し込んで、駅に向かった。握りしめた小銭は、横浜までの電車賃。これを落としてしまえば、横浜に辿り着くことすらできない……〉
 と、オサムはここまで書いて、女の場面に移る。
〈春には桜が満開になる桜の並木道も、冬に歩いていてはどこか心細い。葉を落とし枝がむき出しの裸の木がずらりと道の両脇に並んでいる。四年間通ったこの大学とも、もう少しでお別れか、と女は小さく感慨を覚える。神奈川の某大学に通い、父親は政治家、母は財閥の娘という名家に生まれ、何一つ不自由のない生活を送ってきた。しかしながら何一つ不自由ない生活の中で、自分が何を生きがいにこれから人生を進めていけばよいか、悩み始めていた。四限の授業を終え、大学の最寄り駅へ向かって歩いているときに…〉
 とここまで書いてみて、オサムの筆が止まる。どうしたのであろうか。
「このペースじゃ……なかなか二人は出会わないな……」
 オサムのつぶやきが、四畳半の冷えた部屋の中に響く。オサムは二人の行く末の何を見たのか。意味深なことを言った。口から吐息が白くなっている。木造建築のせいで、部屋の中の温度が外気をうけているのと同じようだった。
「電車賃しか持ってない男が、仕事を終えた後にどこに行くか、そんなもん牛丼屋に決まってる!」
 突如オサムの意気揚々とした声が、木造の壁をつき破り隣人の部屋まで響く。「牛丼? なに?」と戸惑う隣人の小さな声は、彼以外誰にも届かないまま消える。オサムの筆が走る。
〈仕事を終えた男は、その場で責任者の男から日銭をもらう。四千円。ここから電車賃がひかれると、残りは二千七百円。ひとまず空腹を抑えるため、目に入った牛丼屋に駆け込むように入った……〉
 なぜ牛丼屋に行くと決まっているのかは分からぬが、オサムはどうしても男に牛丼を食わせてやりたいらしく、それがそのまま物語に反映されている。
〈並盛か大盛にするか、男は迷った末に、並盛にした。たったの百五十円が、男には惜しいのである……〉
 牛丼の話が続く中、オサムの筆は女の場面へと移る。
〈女の家までは、電車で約四十分程度……〉
 とここまで書き、オサムが止まる。ダメだ。もう帰っちゃったら、男と出会う機会はまた持ち越しだ。オサムはバックスペースで文字を消し、
〈最寄駅から、横浜駅へと女が向かう。買い物をしに百貨店に行くのだという……〉
 として、女を無理やりにオサムが男のいる横浜まで連れてくる。その間に、また男の場面が挿入される。
〈目の前に出された並盛の牛丼、その爛々と光る肉の輝き、立ち昇る湯気の温かさに、男の目が潤む。三日ぶりのまともな食事に男は感激していた。しかし並盛、思っていたよりすぐに少なくなってくる。男の目は、感激の涙から、後悔の涙へと変わっていく……〉

1 2 3 4