小説

『未完』ノリ・ケンゾウ(『猿面冠者』太宰治)

 とここまで、牛丼の場面が続いていく。オサムの執拗なまでの牛丼に対する執着が気味悪い。そのまま流れで、オサムは次に女が百貨店に着く描写を書こうと場面を切り替えようとするが、そこでまたオサムの動きが止まる。
「いや、すれ違っちゃってるな」と言い、
〈百貨店に着いた女、しかし入るなりあと数日間で春のセールが開催されることを知り、落胆したように体を翻し百貨店を後にする……〉 
 女を百貨店から早々に退散させる。男が百貨店での仕事を終えてしまったため、出会えないと踏んだのだ。しかし小説では時系列を自由自在に操れるということをオサムは知らないのか。それとも、オサムの中にある野心が、凡庸な考えを固辞しているからなのか。どうでもよいが裕福な家庭の娘がセールかどうかを気にするのかという違和感は拭えない。
〈ぼろぼろと涙を流しながら、牛丼をほおばる男。お椀を箸でカラカラと鳴らす音が聞こえる。もうとっくに、椀の中は空なのである。それでもなお、男は椀の中にある幻影、男が百五十円を勿体ぶらなかった未来にあった平行世界を生きようと祈るように箸で椀の底を叩くのである……〉
 オサムは筆が乗ってきたのか、勢いよく書き続けるのだが、一向に牛丼屋を出ない男に、こちらとしてはしびれを切らしそうになる。このまま男が牛丼屋にいても、オサムの思い描く大団円には永遠にたどり着けないだろう。ほら、オサムもそろそろ気づいたか。指の動きが止まり、改行。女の場面に移る。
〈女は、百貨店を出ると、腹が減ってきた。目に入ってきたのはそう、他でもない男がいる牛丼屋である。女は導かれるように、今まで入ったことのない、チェーン店の牛丼屋に吸い込まれていった……〉
 女が吸い込まれていった、牛丼屋に。しかしこれは、一体何を読まされているのか。無理があるのではないか。偶然の出会いに困窮したオサムは、女を牛丼屋に連れていってしまい話を進展させようとするが、途中で我に返ったように、
「ちょっと無理があるか」と呟いた。うんそうだ、無理がある。消せ消せ。なんとか平静を取り戻したかと思われたオサムが、バックスペースのキーの上に指を持ってきて、今にもキーを押そうという一瞬手前、考え込むように首を傾げ、直後に信じられない言葉をぽつりとこぼす。
「まあいいか、そのままで」
〈かくして牛丼屋に入った女は、食券を買う。人生で始めての、牛丼屋である。少し緊張した面持ちで、並盛の牛丼と、野菜サラダを買った。二枚の食券を手に、カウンター席につく。隣にいるのはもちろん、空になった椀を箸で叩き続ける男である。二人はここで運命の出会いを果たしたわけだ。女が隣を一瞥すると、男と目が合った。涙で目が潤む男の悲壮に、女は怯んだ。咄嗟に男から目を離し、料理が来るまでの時間、本でも読んで過ごそうと思い、テーブルに置いてある、どこに行くにも必ず持ち歩いているお気に入り文庫本に手を伸ばす(女は牛丼が物凄い早さで出てくることをまだ知らない)と、あの、と隣にいる男に話しかけられ、驚いてびくりと体が震え、声のする方へ顔を向けた。男がぼろぼろに涙を流しながら、それ、僕の本です、と言う。え、と声が出て、見開いた文庫本のページに目を落とすと、女が一番大事にしているページが開かれている。この本……私も大好きで……私も同じの持っていたから、勘違いして……と、感激した様子の女の口ぶりに、男はきょとんとした表情になる。人の本を勝手に読もうとしておいて、何を言っているんだと思うが、女の目の前に並盛の牛丼が差し出されると、それを物欲しそうに見つめる。どうして大盛にしなかったのかという後悔に押しつぶされながら、女から文庫本を返してもらい、泣く泣く店を出る。あ、と声が出て、女は店を出る男の背中を目で追いかけたが、すぐに姿が見えなくなる……〉

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