小説

『運べ、死体』永佑輔(『走れ、メロス』太宰治 、『粗忽長屋』落語、『耳なし芳一の話』小泉八雲)

 いつの間にか信号は青。

 ドレッシングルームの片隅で、芹那が小刻みにかぶりを振っている。
 両親と弟妹が芹那に近く。
「書かないって言ってるじゃん」
 芹那の怒鳴り声は、ドレッシングルーム内で虚しくおさまった。
 弟妹が芹那の腕を掴む。
 母親がスマホを父親に見せる。
 父親がスマホを見ながら芹那の腕に般若心経を書き始める。

 熊沢の足元で、熊沢があお向けになっている。
 熊沢は熊沢を揺さぶったり叩いたり。
「お前には芹那しかいないんだ、お前じゃなきゃダメなんだ。ほら、起きろ……しょうがない」
 ため息まじりに熊沢を背負うと、道路標識に見覚えのある地名が。
「もうすぐだぞ」
 足取りも軽くなる。いや、軽くなったのは目的地が近いからではない。背中にいるはずの熊沢が消えてしまったからだ。
「おーい、俺。どこに行った」
 来た道を振り返った。
 学生たちが歩いている。
 熊沢はお天道様を眺める。
 間もなく正午だ。

 時計は今、十一時半を過ぎた。
 式と披露宴を控えているというのに芹那は全身般若心経の新婦になってしまった、わけではない。
 般若心経は芹那の肘から手首だけに収まっている。父親の字があまりにも小さ過ぎたのだ。
 両親と弟妹は諦めの言葉を口にしたり歔欷したり。
 ゴンゴンゴン、不躾なノック。
「よかった。熊ちゃん、間に合った」
 芹那は安堵した。
 家族は戦慄した。
 開いたドアの向こうに立っているのは、すっかり正装した牧師。
「リハーサルを……」
 牧師が言い終わらないうちに、芹那は素っ気なくドアを閉めた。
 コン、コン、コン。優しいノック。

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