小説

『運べ、死体』永佑輔(『走れ、メロス』太宰治 、『粗忽長屋』落語、『耳なし芳一の話』小泉八雲)

「しつこい。リハーサルは熊ちゃんが来てから……」
 芹那は鬱陶しそうにドアを開けた。
 牧師、ではなく熊沢が立っている。たった一人で。
 芹那の家族は硬直する。
「綺麗だよ」
 熊沢が芹那に笑いかける。
 ドレッシングルームの緊張が解けた。

 芹那の実家の芹那の部屋で、熊沢と芹那は初夜を迎えている。といっても交際十年目、互いによく知っている体、何の新鮮味もないけれどとりあえず抱き合ってみる。
 芹那はハッとし、のけぞって熊沢から距離を取る。
「熊ちゃん……ううん、何でもない」
 芹那は言いかけて、やめた。
 熊沢はされるはずだった質問を察知し、答える。
「その通り。俺は熊沢だけど熊沢じゃない。来る途中、熊沢を落としちゃったみたいで」
「だったらアナタは誰なの」
「分からない。これから熊沢になるかも知れないし、別人になるかも知れない」
 芹那は小刻みにうなずいて、そして抱きついた。

 芹那の実家の前にタクシーが止まる。
 芹那と似たような後ろ姿をしている女性客が、キャッと短い声を上げた。
 ヘッドライトの光の中を、素っ裸の熊沢が歩いて来るのだ。
「裸……」
 女性客が指摘する。
 女性客もドライバーも、熊沢にとってはただの風景。しばらく芹那の実家の芹那の部屋を見つめて、熊沢は暗闇に消えてゆく。
 矢先、警官たちに取り囲まれた。
「旦那さん、裸で何してるの。どこから来たの。名前は。住所は」
 熊沢はほんの少し逡巡する。
「一体俺は、どこの誰だろう」

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