小説

『コール&レスポンス』もりまりこ(『眠れる森の美女』)

 たくさん、淀みなく喋ってもいた。
 いやなことも面倒な関係なども、ぜんぶ水のどこかに落ちてゆくイメージは、じぶんの澱のようなものまでもが、洗い流されてゆくようで心地よかった。
 田沼さんは夜ひとりになると、『オペラ座の怪人』の主人公ファントムみたいに、柱の陰でひとりでクリスティーナを想うファントムのように泣きじゃくりながら歌っていた。   
 そこで田沼さんが想って歌っているのは、じぶんじゃないような気がしてきて、日奈は夢の中で水の中にあたらしい卍のような水紋ができている気分だった。   
 ふいに田沼さんが歌っていた鼻歌を思い出す。あの鼻歌ももしかしたらそういうことかなって。そうすっと、目覚めるのも酷よねって。鼻歌ってすごく楽しいことがあったときのイメージだったけど。もしかしたら、じぶんを鼓舞するときに息を吐くように、こぼれてしまうものなのかもしれないと。
 だから、やっぱり、あれを聞いた時は、黙ってしずかに、通りすがりのように耳のなかに棲まわせるのがいちばんいいんだわ、と。
 もう起きた方がいいのかどうかわからないけれど、起きようとしたら、日奈はもういちど、ひどい睡魔に襲われた。ほんとうにぶあつい酷い感じ。

 日奈がそんな夢を見ていた時、田沼さんはおろおろしていた。日奈が目覚める気配がないからだ。近くのかかりつけ医院に往診に来てもらった。
 オンデマンド診療所で人気のあるアウル・シロタ医師だった。
 引きこもっていたころから、両親が亡くなるまでお世話になった。
 日奈を診察しながら、シロタは眉間の皺が戻らないかもしれないぐらい深い皺を刻んで、息を呑んだまま吐き出すと同時にタヌマさぁん、わっかりましたよって肩を叩いた。とてもスナップが効いていて痛かった。
 よく聞いていると。どうやら、日奈は誰かの睡眠導入剤の代わりとなって眠っているらしい。日奈が眠ると誰かの眠りを誘う。アウル・シロタ医師は、クライアントの幾人かが話したふしぎな話を語り出す。状況が状況なので、クライアントのことを喋るねってぺらぺらと話し始めた。彼らはみんなインソムニアだったのに、ある晩試しに枕に頭を静めると眠りに陥り、気持ちよく目覚めたのだと言う。そして口々に言うのが、夢の中で彼らは、田沼日奈という女の人に、話を聞いてもらってとても嬉しかったと。誰かに耳を傾けてもらっているよろこびをみんなが口々に語るんだよ。
 ひとりは、植木職人の東雲さん。もうひとりは、デパートの外商の只見さん。あと、育児ノイローゼ寸前に陥っていた花田さん。アウル・シロタは、再び、眉間の皺が深くなり、「でもね、田沼さんこのままじゃ、日奈さんいつ起きられるかわからないね。うちのクライアントが次から次へと日奈さんと話したうれしかったって報告にくるからね。後を絶たないのよ。インソムニアは日本中に、あふれるほどいるからね。どうしようか」
 アウル・シロタは、待つしかないという答えを置いて去って行った。

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