小説

『白波の浦』山風大(『伊勢物語 第六段芥川』)

「もう少し歩きましょうよ」
「だけど一雨来そうだし……。それに、あまり二人で一緒にいると彼女に悪いしさ」
 有村がそう気づかうと、朱音は恨みのこもった口ぶりで、
「先輩にそんな感情があったんですね……」
「どうして?」
「だって先輩、七海さんという彼女がいながら大分遊んでるそうじゃないですか。私、綾さんから聞いたんですよ。彼女、七海さんと仲が良いから、先輩のことで色々相談されるんですって。なんでも七海さん、先輩の浮気を心配してるそうですよ。この間も、他のサークルの子と楽しそうに話してたとか」
「七海はあれで意外とやきもち焼きだからね。他の子とちょっと話してただけでも穿鑿されるよ」
 有村はさも困ったように不平を漏らす。
「あら、本当にそれだけですか? 私の友達もそういう噂を聞いてますよ。誰々が有村先輩と関係を持ったって」
「そんなのはただの噂に過ぎないよ。何でもない立ち話が人の口を伝うと、寝たってことになるんだから。それからさ、七海が俺のせいで心配してることを知っていたのなら、あんなことはするべきじゃなかったよ」
「だから悪いと思っているんです、七海さんに対して。でも、それを言うなら先輩こそ、私の気持ちを知っておきながら、いつも思わせぶりなことばっかり……」
 折柄、ポツリポツリと雨が降り出す。朱音はやにわに立ち上がると、男にかけより手を取って、
「私も先輩の……噂の相手になれますか?」
 有村は咄嗟のことに、返すべき言葉もなく、黙然と見返している間に、雨はしだいに勢いを増す。女はその雨を、見上げる顔中に浴びて、眼を打つたびにぱちくりと、しばたたく目蓋が蝶の羽搏き。濡れて幾束の、髪のまつわる豊頬を、雨粒が伝って頤に。その涓滴が、ポタリポタリと、鎖骨に砕け、胸元の開いたシャツから覗く、膨よかな谷間へ、よよと流れる。
 男の目線の、下がるを視るや、朱音は赧然と頬をゆるませ、そろりと斜に俯く。その媚態が男の好き心をいよよそそった。有村は女の両肩を手のひらに包むと、濡れたくちびるに重ね合わす――車道の先に、山手の街に通ずる一本道が口をひらく。有村はしばし踟蹰したが、折柄の雷霆のうなりに背を押され、ふところに抱く女の手を取りその方へ。沛然たる驟雨の直瀉する、緩やかな上り坂を、男女ふたりが駆けてゆく。遠ざかる影二つが霧にまぎるる頃、坂下に彼等をのぞむ新たな人影あり。

 降りしきる雨が、ときたま風に煽られ、ぴしゃりと窓を打つ。稲妻の閃くたびに、ベッドの男女が刹那に浮かぶ。朱音はどよめく雷鳴に、昂りも冷めて怖気がつく。さらぬだに場末の古びた三階建。壁をかざる絵画の裏に、御札ありげな部屋の匂いで。
「大丈夫だよ、じきに収まるから」
 そう言い、有村は隣にかける朱音の肩を抱く。
「私、昔から雷が苦手で……」

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