小説

『おまけ人生』太田純平(『警官と讃美歌』)

 また捕まえてくれなかった。一人交番に取り残された時田は、ただちに無益な発狂をやめた。畜生。自分は一体なにをやっているのか。どうして誰も捕まえてくれないのか。時田はベイスターズの帽子のツバに手を掛けながら、そそくさと交番から出て行った。
 時田は自分の愚かしい人生を呪いながら暫く歩いた。鼻水が止まらず、目に光るものが溜まっているから、出来るだけ人目を避けたかった。人気の無いほう無いほうを選んで歩いていたら、やがて閑静な住宅街に出た。駅近の――それも横浜駅の近くだから、それなりに金を持っている連中の住み家だろう。俺だって東北の寒村ではなく、こういう富豪一家のもとに生まれていたら、もっと違った人生を歩めていたはずなのに――。
 時田の心に、沸々と金持ちに対する怒りが湧いた。いっそのこと強盗にでも入ってやろうか。どうせ入るなら、ああいう、まだ十一月なのにクリスマスのイルミネーションをこれみよがしに飾っているような、幸せオーラ全開の家がいい。行く当てもなかった時田は、仮に強盗に入るならココと決めた、どこぞの大使館のような豪邸の周りをぐるぐる歩き回った。
 やがて駐車スペースの一角に付け入る隙を見つけた時田は、ふらっと酔いに任せて侵入を試みた。すると、子供が練習しているのであろう、稚拙なピアノの旋律が二階から零れてきた。ポロン、ポロン。全く曲になっていない。しかしともすれば、立派な演奏より、ただ鍵盤を弾いているだけのほうが心に響くという事もあるかもしれない。少なくとも今の時田にはそうだった。感極まった精神状態と、不様な音響が妙に調和して、時田の魂は突如として不思議なまでの変貌を遂げた。瞬間的な強い衝動が、時田を泥沼ともいうべき絶望的な運命との戦いに走らせ、自分を支配していた怠惰や諦めという邪悪を打ち払ったのである。ああ。仲川さんの言った通りだ。自分はまだ若い。時間はある。幾らでもやり直せる。そうだ。何がおまけ人生だ。俺の人生は今日、ここから始まるんだ。
 そう思い直した時田が豪邸の敷地から外に出て来ると、ちょうど目の前に警察のスクーターが停まっていて、しまったと思う間もなく、見慣れた若い警官に時田は逮捕された。

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