「時田ちゃんさ」
酔いも手伝い、親しげな様子で男が言った。
「俺はさ、もう六十手前だからさ、これからも人生おまけだけど、時田ちゃんはさ、まだ若いじゃない。やり直しなんて幾らでも利くから。作家になる夢があるなら、もう少し粘ってみるとかさ。最初から上手くいった作家さんなんていないんだし、ネ。時田ちゃんのこれからの人生は、決しておまけなんかじゃないんだよ、ネ」
時田は男の話を真摯に受け止めた。しかし彼の胸に去来したのは、感謝や感動ではなく、後ろめたさだった。俺はいま金を持っていない。俺はせっかくの美酒、美談を台無しにする犯罪者である。そういう自覚が芽生えてから、時田は努めて口を閉ざした。そんな時田の態度を察してか、男が「それじゃあ、また」と暇を告げた。
「また帰りが遅くなると妻に怒られるから」
男はそう言って席を立つと、他の常連客に「それじゃあどうも、どうも」なんて挨拶をしながら店を出た。時田はきゅっと胸が締め付けられた。あの人は自分を好青年として扱ってくれた。本当は盗んだパーカーを身に纏い無銭飲食を企む極悪人なのに。犯した罪の意識は償わない限り一生消えない。こうなった以上、やはり刑務所に行くしか自分の道は――。
「あ、あのぉ……」
時田はか細い声で女将に話し掛けた。そして「お会計についてなんですが……」といよいよ罪の告白を始めようとした、その時である。女将が会計伝票をひょいっと掲げて「仲川さんが」と時田に言った。どうやら先程の客――仲川さんが時田の分まで会計を済ませてくれたらしい。時田は慌てて仲川さんの後を追い掛けようとしたが、「イイのよイイのよ。仲川さんはそういう人だから」と女将が制したので、浮かせた腰を力無く下ろした。
時田は思わず「仲川……さん」と呟いた。滴る鼻水を誤魔化そうと、空になったグラスをぐいっと呷った。今さら感謝を伝えようにもどうにも出来ない。善人を装い、善人に奢らせてしまった。やはり自分は極悪人である。もはや是が非でも警察のお縄を頂戴しなければ――。
時田は店を飛び出すなり、手っ取り早く捕まろうと最寄りの交番に出頭した。パーカーの万引き程度では罪が弱いから、いっそのこと警官をぶん殴るつもりでいた。時田はコンビニ感覚で交番に入ると、奥の間から出て来た若い男性警官に向かって「俺を捕まえろ!」などと声を荒げた。すると横浜駅前とあって通行客も多かったから、あっという間に交番前に野次馬が出来てしまった。眉を顰めた警官は、通行の妨げになっている野次馬を解散させるべく表に出て、こんな事を群衆に告げた。
「立ち止まらないで下さい。大丈夫です。彼はいわゆる野球狂ですよ。今日ベイスターズが優勝を逃したっていうんで、どこもかしこもこんな騒ぎなんです。上からも放っておけと言われてますんで。ハイ、分かったら解散して下さい」
野次馬は警官の指示に従って、ぱらぱらと散開した。警官は警官で時田の方に向き直ると「分かったから分かったから。落ち着いたらゆっくり話を聞いてあげるから。暫くここに座っててね。イイ?」と園児を諭すような口調で言って、表に停めてあったスクーターのエンジンを掛けるなり、どこかへブーンと去ってしまった。酔っ払いにいつまでも構っているほど警察も暇ではないのだろう。