小説

『趣味の壁』真銅ひろし(『青ひげ』)

とにかく今は仕事をしなくちゃいけない。
そう自分に言い聞かせた。

 
最終日。
自宅から連絡はなかった。
「お疲れさまでした。ありがとうございます。」
新幹線乗り場まで来てくれたスタッフに見送られながら新幹線に乗り込む。
店は無事にオープンし、大きなトラブルなく初日を迎えた。結果自分がいなくても何の問題もなかったが、それが一番良いことだ。
上着を掛け、座席に座る。
「・・・。」
メールの1つでも打つべきだろうか。『今日、帰ります。』だけでも構わないだろう。
スマホを取り出し、文字を打ち込む。
『無事に終わりました。今日帰ります。お土産も』
ここまで打ち込み、直ぐに消去する。
何も触れずにメールするか、それとも触れるか、またしても自問自答を繰り返す。
この一週間ずっとこの事でグルグルグルグル回っている。

なぜ、こんな趣味嗜好になってしまってのか。
自分だってなりたくてなったわけではない。
誰にでもある趣味のひとつだ。
それが単純に女装になってしまっているだけだ。

メールの着信音がなる。
差出人を見ると『妻』の表示。
「・・・。」
心臓が握られたような感覚になり、内容を表示させるのをためらった。開けたら絶対によくないことが書かれている、そんな気がした。
「・・・。」
けれど開かないわけにはいかない。震える指でメールを開く。
『秘密、知ってました。』
たった数文字の言葉にギョッとする。
知ってたのは女装の事だろう。それしかない。
いつからだ?どのタイミングで?何故なぜ見れた?鍵は?そんな隙があったか?じゃあなぜその時に何も言わない?
一瞬のうちに頭の中でたくさんの疑問が湧く。
これに何て返信すればいいのだろうか。
「・・・。」
どんな言葉を使ったところで現実が変わるわけではない。それじゃあどんな返信をしても変わらない。素直に話すしかない。
『黙っててごめん。帰ったらちゃんと話します。』
戸惑いながらも慎重に送信ボタンを押す。
頭を座席に持たせ掛けて目をつむる。
 これからどうなるのだろうか?やはり離婚だろうか。
「まったく・・・。」
言葉がこぼれる。まったく厄介な趣味を持ってしまった。自分の趣味を否定するつもりはないが、世間はまだまだ偏見で溢れている。
料理が趣味、野球が趣味、カメラが趣味、踊るのが趣味、登山が趣味・・・。
犯罪でもない自分の趣味と何が違うんだろうか。

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