小説

『走れ香奈子』杉森窓(『走れメロス』)

「う……。そうだ、私のコウキくん……あ、違うユマくんのコウキくんだった」
「どっちでもいいわ」
「よくねぇんだよ全然違うんだよ」
「今何の勉強中?」
「ん~? 化学」
「げ」
「何ひとつ頭に入らねぇ」
「可哀想」
「由紀奈は? 何してんの」
「ん? 私は本読んでる」
「なんだよ余裕かよ~」
「あんたが最近うるさいから走れメロス読んでる。どんな話だったかなって」
「えっ……ねぇメロスとセリヌンティウスってさぁ」
「……嫌な予感がする。何も言わないで欲しい」
「え、だっておかしいじゃん! メロスはまぁ、まだ言い逃れできるよ。でもセリヌンティウスは言い逃れ出来ないじゃん~! セリヌンティウス、メロスのこと好きじゃん~!」
「そりゃ好きでしょ。信じて待つんだから」
「いやだからさぁ~わかる? ラブなの、これは。だって私ならさぁ、もし由紀奈が待っててって言っても普通に疑うよ~。私だけでも許してくださいごめんなさいってしちゃうよ~。セリヌンティウスすげぇ好きじゃんメロスのこと~。って当時超思ってたね。あの頃は既にもう腐ってた」
「早く化学やって」
「う……頭が……。ほら、メロスも妹の結婚式の後寝てたじゃん。私も寝てよくない?」
「あんたもお兄ちゃんの結婚式あるじゃん。その後寝たら」
「は? 鬼?」
「これがイベントだったら余裕で起きてられるくせに」
「そうなんだよな~。勉強楽しくない~」
「ほらほら頑張るよ。問題出してあげるから」
「うっ、由紀奈ちゃま……」
「きも」
 しかしアルバイトで疲れた体に化学式はほとんど入ってこず、香奈子は由紀奈の声を子守歌代わりに眠ってしまうのだった。

 来るイベント当日。香奈子は栄養ドリンクと夜食を机に並べ、イベントが開催される十八時を待ち、アラームと同時にスタートした。机の傍らには一応の勉強道具たち。いつもなら、夜中三時まで走り続ければ数時間放置してもそれほど順位は下がらない。それを狙ってのことだった。
 しかし、今回はいつもと違う。
「駄目だ一瞬でも目を離したら順位が下がる……」
「ん~? まだやってんのぉ?」
 パソコンの画面の向こうで、由紀奈の眠そうな声がする。今日は彼氏との放課後デートを早々に切り上げて香奈子に付き合ってくれているのだ。頭が上がらない。順位は下がるが。

1 2 3 4 5 6 7 8