「……いや、何これ。いやああああ!」
夫人が悲鳴を上げると、老紳士は飛び起きて、枕元の明かりをつけた。
「おい、どうしたんだ!?」
「時計が……時計が止まらないの!」
泣きじゃくる夫人を見て、老紳士もその異変に気付く。爪や髪だけではない。肌からも色艶が失われ始めていた。
「貸しなさい!」
老紳士は夫人の手から時計を奪い取る。しかし、
「何だ、これは。どうすれば……」
時計を止める方法など分かるはずもない。リューズも空回るばかりで、どうすることもできなかった。
「頼む! 止まってくれ」
老紳士は必死の思いで、時計を思い切り壁に叩き付ける。すると、衝突音とは別に、何かカチンという音が鳴った。そして、部屋中に響くまでになっていた時計の鼓動は、徐々に鎮まりを見せ始める。恐る恐る老紳士が時計を拾い上げると、ガラスに大きなヒビが入っていたものの、時計はいつも通り正常に時間を刻んでいた。
呆然とする夫人は、ふと窓ガラスを見る。そこに映っていたのは、ぼさぼさの白髪にシワだらけの肌の女。一瞬理解が追い付かなかったが、やがてそれが自分自身であると気付くと、夫人は意識を失った……。
それから、一週間が経った。
日付が変わり、夜も更けた頃。森の洋館に、老紳士が一人で訪れていた。
「これを返そうと思ってね……」
青年の前で、老紳士は懐から丸めたハンカチを取り出す。開くと、中にはガラスのひび割れた銀色の懐中時計があった。
「……どうやら妻は、この時計の怒りを買ってしまったらしい。一夜にして、私と同じくらいの年齢まで、年老いてしまったようだよ。今はショックでまともに会話もできない」
老紳士は声を荒げるでもなく、ただ寂しそうに時計を見つめながら言った。
「気付いておられたのですね。その時計が、この館で買われたものであると」
青年が言うと、老紳士は力なく頷く。
「まあ、何となくね。これでも、妻とは十年の付き合いになる。分かってしまうものだよ。色々とね……」
「では、奥様の企みも含め、全てを承知の上であえて受け取った、と……。何故ですか?」
「……私も、それなりに生きた。為すべきことも為した。生まれたことの責任は果たせたと思う。残りの人生は彼女と共に、ただ静かに過ごせればいいと、そう思っていた。だから、彼女が私を必要としないのなら、それまでであるし、それでいい。……何故か、と聞いたね。あえて言おうか――」
老紳士は顔を上げると、達観でもしたように澄んだ目で青年を見据え、それから言った。
「――彼女を愛しているからだ。君には分かるかね?」
その言葉に、それまで仮面のようだった青年の表情が、わずかに一瞬、揺らいだようだった。少しの静寂を置いて、青年はまたいつもの淡々とした口調で答える。