小説

『ドーナツの穴から食べる』香久山ゆみ(『青い鳥』)

「なあ。君も働きに出ないか」
 ああ、ついに。私は心中で哀しい溜息を吐きました。人の好い夫はいきなり離婚を切り出すなんてできません。これは第一歩です。まずは専業主婦の私に生活力を付けさせた上で。哀しい優しさです。私はまるで一人大海原へぽんと放り出されたような気がしました。いえでも大丈夫、私には浮き輪が、……ああ違っただめです。これはドーナツでした。浮かびません。静かに狼狽する私を見兼ねたのか、夫が言葉を継ぎます。
「二人で働いてさ。頑張って貯金して、早目に今の仕事をドロップアウトしてさ。一緒に世界旅行でもしないか。豪華クルーズ客船なんかでさ」
 そんなことを言う夫を、ぽかんとした顔で見つめます。夫は照れ臭そうに笑っています。夫は豪華客船のデッキから私に浮き輪を投げてくれました。でも、それもドーナツです。この人も馬鹿です。こんな馬鹿だとは知らなかった。一緒に生活していながら、私は彼のことをまるでちゃんと見ていなかったのです。不思議で魅力的で放っておけない人。私を閉じ込めていたドーナツは、海水にふやけて溶けていきます。所詮はドーナツです。
 デッキに立った私は、夫と眺めます。どこまでも続く青い海、青い空。風が心地いい。再び働きに出た私は、案の定職場の人間関係に苦労しています。けれど、パートタイムで少し働き方を変えたこと、帰る場所があること、あとは、時々の休暇に夫と船旅に出ることで、なんとかかんとかやっています。ただ、こんなに息抜きばかりしていてはなかなか貯金も溜まりませんが。デッキ席に紅茶とドーナツが運ばれてきます。夫は二つのドーナツをひょいと取り上げて目の前に掲げ、ドーナツの眼鏡で私を覗きます。私と海と空を。宇宙を。無です。空です。夫の指ごとドーナツに齧りついて、私たちは声を上げて笑った。

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