「ある者を幸せにできた時、魂は人間として生まれ変わるだろう」
そしてわずか十年の人生を終えた彼は、タマシイとしてこの世をさすらうことになった。
沙織はぐずぐずと街をさまよっていたが、帰る場所は一つしかなかった。結局、鹿男に言われるままにマンションに戻ると、エントランスで和樹が待っていた。部屋に戻ってないところが嫌味っぽいと沙織は情けなくなった。同情を引きたいのが見え見えじゃないか。それは自分か、と沙織はまた思いかえす。母が死んだ日に泣きついて、先に同情を引いたのは自分だと、彼女は後ろめたさを感じた。
和樹は彼女に気づくと顔を上げ、潤んだ目で微笑みかけてきた。餌を待つハムスターみたいだ。沙織の胸がちくりと痛んだ。
「部屋に戻ってればいいのに」
「いや、うん。もう帰れないから」
「和樹の家じゃない。私が出てくわよ」
「……そう思ってたんだ」
エントランスの自動ドアが音をたてた。スーツ姿の男がいぶかしげに二人を見ながらエレベーターに乗り込んでいく。逃げるように外へ出ると、和樹が追いかけてきた。ビル風が吹き、彼の手元で花束が騒がしく音を立てた。
「これ、漫画喫茶に持っていけないかも」
ビニール袋から花束を取り出すと、和樹はかすみ草に鼻を近づけた。何も香りがしないのだろう、ちょっと首を傾げている。と、顔をそむけて大きなクシャミをした。ほんと、小動物みたいだ。沙織は微笑みながらマフラーをほどいた。
「わかった、交換しよう」
風通しのよくなった首元に、冬の冷気がまとわりついてくる。彼の手にある花束を壊さないように、そっと和樹の首にかけた。ぐるぐる巻き付けると、彼からかすみ草を取り上げた。
「もうとっくに、一緒にいても、幸せじゃなかった。だからって、浮気は許せたもんじゃないけどね」
彼をにらんだ。目が潤む。ああ気付かれたなと沙織は目を閉じた。八年だ。目をあわせると、お互いの思っていることは分かってしまう。和樹も終わったんだと理解しているに違いない。
「漫画喫茶じゃないんでしょ、早く行けば?」
肩を殴るように押すと、和樹は口を開きかけた。にらむ沙織に躊躇している。けれど結局口をつぐみ、スーツケースの取っ手を持ち上げると頭を下げてきた。追い払うみたいに手を振ると、彼は背中を向けて歩き出した。
ガラガラとスーツケースの音が響き、やがて小さくなり、駅の方へと遠のいていった。
「なるほど、これが君にとっての幸せなんだね」
耳元でささやかれ飛び跳ねた。鹿男が背後に立ち、感慨に耽っている。腰のあたりで後手を組み、ふうむとうなった。
「んなわけ、」
言葉を切り、言いよどんだ。