ふいにあたりが暗くなった。二人は照明が落ちたショーウインドウの前にいた。沙織は他人事のように、ショーウインドウガラスに映った自分たちを眺めた。立ち止まる二人を横目に、足早に歩行者が横切っていく。ガラスに映る、すらりと背の高い男と目があった気がした。何かを選んで、変えるんだよ。鹿男だ。とっさに振り返ると、そこにはもう鹿男の姿はなかった。
「沙織の好きなフルボディのやつ」
和樹の言葉に我に返った。風が吹き、手元で花束がガサリと音をたてる。
「じゃあ、これと交換」
かすみ草の花束を差し出した。要らないと目で訴えてくる和樹の胸に押し付け、彼の手からもぎ取るようにワインを受け取った。
「もう追いかけてこないでよ」
「あ、うん」
呑気な返事だ。でもこのおっとりとした彼に私は救われてたんだ。もう解放してあげよう。沙織は強がりしか残っていない自分を励ました。花束よりも随分重くなったワインを手に背中を向けた。そして、一度も振り返らなかった。
人混みをかき分け、沙織は来た道を戻っていった。はは、と自嘲気味に笑ってみる。そもそも、私は彼のことが好きだったのか。一人になるのが怖くて、目の前にいる彼にすがっただけなのか。あるいは両方なのか。トボトボ歩きながら、また噴水広場にたどりついた。さっきとは違って人はまばらだった。噴水は止まり、水面が揺れている。沙織は鹿男といた場所に座って、夜空を見上げた。ビルの谷間からは星一つ見えない。吐く息が白く立ち上っていくばかりだ。
一気に飲んだビールが回ってくるのを彼女は感じた。少しだけ寒さが増しになったような気がする。大きなため息をつき、肩を落とすとがっくりうなだれた。飲んでやるわよ、と紙袋からワインを取り出してみる。
「戻ってきたのか、おかしいな」
低くて心地よい男の声がして、沙織は驚いて顔を上げた。鹿男が目の前に立っている。両手をコートのポケットに入れながら、彼女を見下ろしていた。人間? いやこの感じは違う。まじまじと鹿男の顔を眺めた。酔いが回って身体が揺れる。体勢を立て直すと、沙織は酔ってないことを証明するべく、咳払いを一つした。
「あなた、さまよってるの?」
「さまよってるのは君の方だと思うんだが」
えらく気高いタマシイだな。ふんと沙織が鼻で笑うと、鹿男はついと冷ややかな視線で返してきた。
「幸せに変えなかったのかな、こんなことは初めてだよ」
「あいにく不幸になったばっかりよ。残ったのはワインだけ」
鹿男はふうむとあごをなでながら、沙織の手元に目をやった。彼の優雅さに飲み込まれまいと、沙織はワインを抱えて鹿男をにらむ。琥珀色の瞳に細い首。こげ茶の上等なコートとボルドー色のマフラー。森の奥深く、湖面に映る鹿みたいだ。冷たい風が吹き荒れたが、鹿男は飄々としたものだった。そうか、この動じない感じが似てるんだ。