泥がまたもやりと動いて、それきり沈黙が続いた。人魚姫はいらいらしながら言葉を投げた。「いつもそうやって、暗いところにいて」
泥が大きく盛り上がって一瞬、煙のようにたちこめ、低くこもった声がおどおどと言った。
「だって、おれは日なたに出てっちゃ、だめなんだ。こんな醜い姿を晒したら、誰だって声を押し殺して笑うんだから――」
おわりまで聞かず、人魚姫はあずまやから外へ出た。空のちょうどてっぺんから振り注ぐ太陽の光が、宝石のかけらのように分散して輝く水のおもてへ向かって、ぐんぐん泳いだ。体を圧迫していたものが徐々にゆるむ。水は濃く深い色から淡く薄い緑色へ、さらに透明な色へと移っていく。きらきらと光の見えるところへ手を伸ばし、上へ、上へ、昇った。
わたしは目の前のカップを手に取り、ひと口飲んだ。華やかな香りとは裏腹に、紅茶は飲んでみるとぎゅっとしぶくて、それがのどを滑って胃の腑へ落ちた。
「食事の支度をしていたんです」自分の声が、べつの誰かの声のように響く。「今日は大勢の人が家に来ていて、醤油を入れる小皿が足りなくなって、義母が食器棚の、普段は触らない戸袋を開けて、年代物の大皿や、何年も前に梅酒をつくったきり使われていない瓶や、ほこりをかぶったティーセットなんかをどけて、奥のくらがりを覗き込んで……そうしたら」
渦を巻く潮のように、どこまでも深く吸い込まれそうな紫色の布の包みを彼女は見つけて、ひらいた。そこには小さな皿が十枚、重なっていた。白亜紀の地層から今しも掘り出されたばかりのような風合いの薄く円いものを、義母は不思議そうに眺め、見覚えのないものだけどちょうどいいわとつぶやいて、台所へ持って行った。わたしにもそれが、来客用にはぴったりの小皿に見えた。どこかの窯で焼かれ、幾度も売られ、また買われてここへ仕舞い込まれた、精緻な芸術作品のような、食器なのだと思った。
義母の後について台所へ戻りながら、何か不穏な心持がした。きっちり巻かれていた記憶の帯がするするとほどけて流れ、後ろになびき出すのがわかった。乾ききった、いびつな円いかたちに見覚えがあった。むかし、といってもほんの二、三年前なのだ、その頃まで確かに、わたしのからだの一部だったもの。うろこのある生き物たちと夜も昼もなく戯れ、縦横無尽に海の中を泳ぎまわっていた頃、水の上から差し込む光にきらきらと輝くわたしの尾に、どんな生き物もすれ違いざまに目を留めた。その視線を意識すると、口の中に、何とも言えず甘美な味が流れ込んでくるのだった。
伸ばした手が義母の手と触れて、積み重なった層を崩した。上の一枚が床に落ち、あっと思った時には、ふたつに割れていた。わたしは床にしゃがみ込み、破片をつかんだ。指がするりと切れた。義母がばたばたと廊下の奥へ駆けて行く足音をぼんやりと耳に入れながら、わたしはすばやく破片を拾って、残りの九枚と一緒にもとの布に包んで持ち、玄関へ向かった。指から血がにじんでいた。それをきゅっと口で吸って、外へ出た。
「ひとつ、忠告しておいてやろう。お前は、その男に惚れてるわけじゃない。ただ人間の恰好をして、人間と交わってみたいのさ。単なる好奇心だよ」