小説

『マーメイドの食器棚』長谷川美緒(『人魚姫』)

「修繕を、お願いしたくて」何と言っていいかわからないまま、切り出してみる。「こちらでなおしていただけると、伺ったものですから」
 老婆は包みの中の、いびつな円盤の重なりを目を細くして眺め、骨ばった指で、割れていない一枚をそっとつまんだ。かちゃ、とまた音がした。足の先からぞわり、と粟立つような感覚がのぼってくる。老婆は紅茶をすすり、「ふうむ」と唸った。
「むかあしは、ね。何だって引き受けていたもんさ。やれ舞踏会に行きたいの、恋敵を野獣に変えたいの、って」
わたしは目を上げた。にぶく光る銀髪を後ろでまとめた彼女は、顔全体の皺を深くしてにっと笑った。むかし、という言葉の響きに、どこかで花のつぼみがほろりとひらくような気がした。むかあしむかし。
 どこかとても深いところ、へその奥からさらにずっと沈み込んだところの一点が、熱をもって疼いた。果物の香りがむんと濃くなってきて体を包み、そのまま引き込まれるように、わたしは目を閉じた。

 薄曇りの海の底で無意識にまた尻尾の先を噛みながら、人魚姫は物思いに耽っていた。ぐるうりと体を曲げて自分の尻尾を噛むのは、彼女の癖だった。周りを泳ぐ魚にはできず、人魚だけにできることだったから、誇らしいような気持ちも手伝ってつい、この姿勢に落ち着いてしまうのだ。
 彼女が考えているのは、出かけた先でたまに遭遇する人間たちの姿だった。太陽が雲に隠れている時や、水平線の向こうに沈んでしまった後も、しんと凝縮された闇だけになる海の底とは違って、地上にはいつも楽しげでにぎやかな明かりがあふれていた。ある時は岸辺に並ぶ屋敷やコテージの、またある時は海の真ん中をゆっくりと航行する船の、あかあかとした光は、いくら眺めていても飽きることがなかった。光の傍ではいつも、誰かが他の誰かにひそひそとささやいたり、皆で笑いあったりしていた。彼らはときに海の波に洗われるあたりまで出てきて、色とりどりの火を手にして駆け回ったり、木を組んでたき火をし、夜更けまで踊ったりした。男のかき鳴らす楽器の、女の翻す長いスカートの、何よりも彼らの満ち足りた表情が持つ息吹は、海の中では決して触れることのできないものだった。
 海の底の、あずまやのように吹きさらしの荘厳な住居に戻ってくると、人魚姫は自分の部屋の衣装箪笥を開けひろげ、次から次と手持ちの服や、さんごと真珠でできた髪飾りなんかを取り出して、鏡の前で着けては外し、外してはまた着けた。磨き込まれた鏡面は、髪を結い上げて着飾った彼女の姿を、澄みきった満月のようにくっきりと映し出した。あるだけのものを身に着けてしまうと、彼女はきまって、しくしくと泣き出した。さんごも真珠も、ひらひらする裾飾りのついた服も、みんなベッドやら床やらの上に――床といっても、ところどころに岩の塊が突き出した泥土だったのだが――かまわず放り投げて泣き続けた。泣き声は水を震わせ、静まり返った海の中を響いていく。いつも、そうだった。
 すぐ足元でかすかに咳払いのような音がした。人魚姫は尾を口から放して体を伸ばし、音が聞こえたあたりに目をやった。くぐもったうなり声とともに、泥の下で何かが動き、ひれのようなものが尾の先をぬるりとこすって、また泥の奥へ引っ込んだ。人魚姫はため息をつき、なるべくうんざりして聞こえるようにつぶやいた。
「なぜ、姿を見せないの」

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