小説

『マーメイドの食器棚』長谷川美緒(『人魚姫』)

 夫はいつも冗談を言ったり、沈みがちなわたしをにぎやかなところへ連れ出したりして、わたしの心を明るいほうへ明るいほうへ、引っ張り上げてくれる人だ。わたしがやっと転ばずにまっすぐ歩けるようになった時は、これで山登りも乗馬もできるねと、自分のことのように喜んでくれた。
 たまに、はじめから人間だったような気のすることがある。陸に生まれ、太陽の光を浴びて育ち、道を歩き、買物をし、皆と話をして笑いあい、体を洗ってベッドで眠り、目覚まし時計を止めて起き上がる、そういう、気持ちよく整った人間なのだと思って安心しきっていると、からだの奥にあるしこりのようなものに気づく。日々水分を失ってからからに硬くなるそれを、どうしても捨てられなかった。目につくところには置けないし、寝室に仕舞っても、夫が見つけるかもしれない。だから食器棚の戸袋を開けて、その奥のくらがりへ重ねておいた。ひたり、と戸を閉めてしまうと、わたしはまた人間のように笑うことができた。
 台所からさっきとはべつの、花のような香りが漂ってくる。老婆が、ガラスポットと新しいティーカップをお盆にのせて現れた。「カモミールティーだよ。口に合うかね」湯気の立つポットを覗くと、黄色い、ちらちらする花弁が茶葉に交じっていた。老婆は腰を下ろし、熱い液体をカップに注ぎ分けた。湯気がつんと香る。
「薬を煮る大釜も、森の中の集会も、永遠の命も、ずいぶん前に手放してしまってね」老婆はきまり悪そうにぺろりと舌を見せた。「もう、皿一枚、なおすことはできないんだよ」言いながら彼女は、肌色をした小さな四角いものを差し出した。
「ここは暮らすにはいいところだよ。裏には畑もあるし、森に入れば山菜もきのこも採れる。たまに、誰かが訪ねて来る」
 柔和な笑みにつられるように受け取ったものは、バンドエイドだった。右手の人差し指の、赤くにじんだ傷にそれを巻き、カモミールティーをひと口飲んだ。のどについと何か細かいとげが刺さるように感じて、ほんの少し涙が出そうになる。「そろそろ、お暇します」老婆の返事も待たずに、わたしは立ち上がった。円いうろこをのせたテーブルがふっとどこかへ、泳ぎ出しそうに見えた。
 外へ出ると、薄闇の中にゆるく風が流れていた。扉口に立つ老婆の足元に、たまご色の明かりがたまっている。
「つぎは何か食べるものを焼いておくよ。またおいで」
 うなずくと、かすかな音をたてて扉が閉じた。来た時と同じもやを分けて、急ぎ足で歩く。皿をなくした言い訳を、考えなければいけないと思った。いや、そもそも皿は、見つからなかったのではなかったか? だからわたしは急いで、買いに出たのだ、小さくて割れそうに薄く、海の底の廃墟に住む人魚のうろこのように白々と光をはじく、新品の食器を。

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