小説

『マーメイドの食器棚』長谷川美緒(『人魚姫』)

 薬を煮詰めながら、魔女は淡々と言った。
「いいのよ。それが、わたしの望む生き方なんだもの」
 魔女は鼻を鳴らした。「かゆみみたいなもんだよ、かわいそうに。人間がうじゃうじゃいるとこの生活なんて、せまっくるしくてつまんないだけさ。海の中にいれば、気の向くままどこへだって行けるし、寿命を考えてあくせくすることもないのに」
 かわいそうなのはこの人だわ、と人魚姫は思った。もうすっかりお婆さんで、光の降り注ぐところへなんか出たらきっと、たちまち焼け焦げてしまうのよ。
「地上に行ってから、飲むんだよ。ここで飲んだら、あっという間に溺れて死んでしまうからね。ふん、人間なんぞ、弱っちいもんだよ……」
 ぶつぶつ言う魔女にひょこんと頭を下げ、薬の瓶を受け取ると、人魚姫は暗い穴ぐらを出て、海藻がもつれあった庭を抜け、水の中を静かに泳いで自分の住まいにたどり着いた。相変わらず沈黙に支配された住居の門をくぐって自分の部屋へ行くと、鏡台の椅子を引き出してそこへ座った。部屋はきれいに整頓してある。服や髪飾りは、迷ったけれど置いていくことにした。鏡台の上の櫛を手に取って、彼女は髪を梳り始めた。
「行ってしまうんだね」
 闇に沈んだ泥の中から、くぐもった低い声が言った。
「ええ、行くわ」
 人魚姫は鏡に向ったまま、答えた。
「わたし、人間と結婚するの」
「そうかい。ついに叶ったんだね。きっと、地上は楽しいところだよ」
「そうね。そうだと思う」
 自分でも驚くほど平板な、抑揚のない声で彼女は答えていた。泥のもやがわずかにうごめいて、あとは何の返答も、物音も、返ってこなかった。声の主は眠ってしまったらしい。人魚姫は髪を結い上げると、しばらくの間鏡を見つめてぼんやりしていた。髪型は完璧だった。これほどまでに一分の隙もなく美しく結い上げられたことは、一度もない。彼女はふいに、これから失うことになる自分の尻尾を、両手のひらでぎゅっとこすった。ざらざら、と、慣れきったうろこの感触が、手の皮膚から神経を、血管をとおって全身にぞわっと流れていく。
 きっと、わたしは、じょじょに忘れていくに違いない。
 地上で過ごすうちに、水の中で暮らした日々のことを。
 それはだんだんと薄れていって、ついには、生まれる前に母親のはらの中でみた夢くらいにぼんやりしたものになって、本当にあったのかどうか判別できない、影のような記憶になるだろう。あるいは単なる空想の風景として、脳裏に残るだけかもしれない。
 うろこを一枚、そっと引っ張ってみる。ぱきんとかすかな音がして、案外あっさりとそれは取れた。一枚、また一枚と、彼女は尻尾のなるべくきれいなところから、うろこを十枚、そっとはがした。小さな丸いうろこは、出土したての化石みたいに白々としてまぶしく、どこか所在なげに手のひらにおさまっていた。

 老婆が、かちゃりと小皿を――うろこを、紫色の布の中へ戻した。割れた破片と、いびつな九枚の重なりが崩れ、テーブルの上へ花びらのようにばらばらと散った。紅茶はすっかり冷めていた。「淹れなおそうかね」老婆は言って、立ち上がった。わたしはうろこに目を落とし、指でそっと、乾いた表面をなぜた。

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