小説

『螺鈿の小箱』霜月透子(『浦島太郎』)

「美姫様は……志麻子さんのご両親に渡すために用意していた現金の入った封筒に、このライターで火をつけるふりをしたのです。脅しのつもりでした。けれども、中学校から帰宅した志麻子さんには危険を伴う場面に見えたのでしょう、靴も脱がずに駆け込むと体当たりをするように制止に入りました」
 覚えている。それから、そう……
「そして、火がついたままのライターが美姫様の手から落ち……」
 燃えたのだ。掃除などしたこともない部屋には衣類や酒瓶などが散らばっており、瞬く間に炎が広がった。炎に触れずとも、頬や眼球の表面までもが熱を感じた。
 玄関側にいた志麻子たちは逃げられたが、部屋の奥にいた両親は逃げ道を失って炎に包まれたのだった。
 いつしか、志麻子はうずくまっていた。抱えたままの螺鈿細工の小箱の角が胸に刺さって痛かった。
「志麻子さんに罪はありません。美姫様はそうおっしゃっていますし、私もそう思います。消防や警察の聴取では口論のことには触れませんでした。美姫様の訪問中ではありましたが、そのときに喫煙していた志麻子さんのお父様の失火ということになりました」
 だから志麻子さんに罪はないのです、と亀山は言った。
 しかし、志麻子本人だけは知っている。たしかに両親を殺害する計画など立てたことはなかったが、殺意がなかったとはいえない。あの事件がなくてもいつかは殺していた気がする。
「美姫様のもとに帰られますか? きっと志麻子さんが戻られることをお待ちになっています」
 亀山が車の左後部座席のドアを開いた。志麻子が乗り込むと、亀山はほっとしたように微笑み、運転席の方へと回る。
 一人きりの車中で志麻子はつぶやく。
「いいえ。戻らないわ」
 亀山は発車前の点検に余念がなく、まだ運転席のドアに手をかけていない。
 螺鈿細工の小箱が足元に転がる。オイルライターが志麻子の右手に握られる。親指がキャップを上に弾く。キンともカンともつかない澄んだ音がして、着火部をガードする防風部分が現れた。ホイールを回転させると小さな炎が立ち上がり、オイルが磯の匂いを押し返す。
 そして志麻子は、ライターを握る手をそっと開いた。

1 2 3 4 5