小説

『螺鈿の小箱』霜月透子(『浦島太郎』)

 レースのカーテンが風をはらんでふわりと膨らんだ。あたたかな風に運ばれて桜の花びらが一枚、志麻子の読んでいる本のページに舞い降りた。志麻子は花びらをそっと摘まむと、本を閉じて窓辺に向かった。バルコニーに出て手を開くと、花びらは風に乗り、たくさんの舞い散る花びらに紛れていった。
 庭の桜は満開で、二階のバルコニーから眺められるはずの港の風景を春色で遮っている。海を見下ろす丘の上だというのに、潮の香りは届かない。かすかに甘い花の香りが漂い、同じ海辺でも志麻子の家とは大違いだ。あそこはいつも磯臭い。
「志麻子ちゃん。いいお天気よ。一緒にどう?」
 声のする方を見下ろせば、桜の木の下にあるガーデンテーブルでお茶の支度をする叔母の姿があった。
「美姫叔母ちゃん。お外でお茶なんて寒くないの?」
「ええ。ちっとも。日差しが気持ちいいわよ。降りてらっしゃいよ」
 庭へ向かう途中にカーポートの脇を通ると、運転手の亀山が車を磨いていた。
「志麻子さん、お出かけですか?」
「ううん。庭で美姫叔母ちゃんとお茶をするの」
「そうですか。それはよろしいですね」
 志麻子が手を振ると、亀山は軽く会釈をして車の手入れを再開した。
 春休みの間だけの短い滞在だというのに、志麻子はすっかりここでの生活に馴染んでいた。叔母は志麻子の母の二つ下の妹だが、ここではなにもかもが志麻子の家とは違う。志麻子の町はひと気のない磯がいつも岩に貼りついた海藻が腐ったような臭いを漂わせているが、叔母の町は豪華客船が出入りする港を見下ろす丘の上にあって、そこかしこに花の香りが満ちている。ここのうちの子だったらどんなによかっただろう。志麻子は毎日のようにそう思うのだった。
 摘んだばかりのハーブで淹れたお茶を飲みながら談笑する。
「ねえ。また本を貸してちょうだい。中学校の図書室にある本はどれも退屈だったんだもの」
「志麻子ちゃんは読書家ね。高校ならもっといろんな本があるかも」
 そう言いかけて叔母は紅茶をひと口飲んだ。
 中学は先日卒業したし、高校の図書室にも期待はしていない。
「わたし、美姫叔母ちゃんの書庫の方が好き。見たこともない本ばかりだもの。まるで魔法の本みたいな表紙もあるでしょう。背表紙が並んでいるのを眺めているだけでも楽しいわ。それに、本棚のあちこちに飾ってある小物も素敵だもの。あの螺鈿細工の小箱なんておとぎ話に出てきそうよ」
「あら。嬉しいわね。どうぞ好きなだけ読んでちょうだい。書庫へは自由に入ってもらって構わないから」
「わあ。美姫叔母ちゃん、ありがとう!」
 思わず抱きつくと、叔母は「あらあら。お茶が零れてしまうわ」と笑った。叔母は春の花束のような香りがした。

 
 昼間はあれほどあたたかかったのに、夜になるとまだ冷える。叔母は「古い家だから仕方ないのよね」と恥ずかしそうにうつむくけれど、志麻子はこの家のそんなところも好きだった。

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