小説

『螺鈿の小箱』霜月透子(『浦島太郎』)

「亀山さん、帰る前に暖炉に火をくべてくれない?」
 叔母が言うより早く、亀山が暖炉の前で腰をかがめた。亀山は慣れた手つきで暖炉の中を掻きまわし、ほどなく赤々とした炎が踊り始めた。
「美姫様、これでよろしゅうございますか」
「ええ。ありがとう。助かるわ。お疲れさま」
「では本日はこれで失礼します」
 去っていく亀山に向かって志麻子が手を振ると、笑顔でぺこりと頭を下げてくれた。
 志麻子はゆったりとしたソファで叔母と並んで座り、それぞれに本を読む。叔母が膝掛けを広げ、二人は一枚を分け合ってあたたまった。
 こうして日がな一日のんびりと本を読んで過ごしていると、時間も心も溶けていって、桜吹雪に遮られた景色のようにやわらかく曖昧に霞んでいく。すべては花の色と匂いの彼方にあった。
 静かに夜が更けていく。
 暖炉であたためられた空気が揺らめきながら部屋に広がっていく。静かで深い、春の夜。
 ぱちりと小さく弾ける音に続いて、ことりと薪が転がった。
 音に導かれた視線の先では、ぬめぬめとした炎がおぞましく揺れていた。
 志麻子はふいに寒気を覚え、叔母に抱きついた。叔母はなにも言わずに志麻子の背に腕を回し、幼い子を寝かしつけるように優しくさすったり叩いたりしている。それから、耳元で囁く。
「志麻子ちゃんさえよければ、ずっとうちにいてもいいのよ」
 それはなんとも魅力的な誘いだった。同時に、自分には帰る場所があるのだと思い出すきっかけになった。いつまでもここにいたいのはやまやまだが、そういうわけにもいかない。思えばかれこれ三週間近く滞在している気がする。
 志麻子がゆっくり叔母から上体を離すと、叔母も抱き寄せていた腕の力を緩めた。互いに見つめ合う。
 言わなきゃ、と志麻子は思った。
「わたし、帰る」
 叔母は短く息を吸い込むと、しばらくしてその息を細く長く吐き出した。
「そう……じゃあ、明日、亀山さんに送ってもらいなさい」
 うん、と頷いたけれど、声にはならなかった。

 
 覚えていますか、と運転席の亀山が言った。
「なにをですか?」
 叔母宅での三週間の滞在でのんびりしすぎたせいか、志麻子の記憶と心はひどくぼんやりしていた。
 やはりお忘れですよねえ、と、さして残念でもなさそうに亀山は言う。
「私がこうして運転手をしていられるのは志麻子さんのおかげなんですよ」
 運転手募集の面接の日、ちょうど志麻子が叔母のところに訪問していたという。当時は面接がどのようなものなのかも理解できていない志麻子だったが、なにを思ったか、スーツさえ用意できないほど貧しかった亀山の手を取り、叔母に向かって「この人がいいよ」と言ったそうだ。
 志麻子はすっかり忘れていたのだが、そんなこともあったような気もする。おそらくスーツ姿の大人が恐ろしく見え、唯一私服だった亀山が優しそうに見えたのだろう。志麻子の父もスーツを着用しない仕事だったせいもある。

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