小説

『螺鈿の小箱』霜月透子(『浦島太郎』)

 幼い子供の一声だけで叔母が亀山を採用するはずもないから、それは単なる偶然なのだろう。けれども亀山がそのように思ってくれていることに悪い気はしなかった。
 高速道路を下りると風景は緑色をしていた。それでもまだこのあたりは鉄道の駅もあって開けている方で、大型スーパーやホームセンターが目につく。ただ、いくつかの店の看板が志麻子の記憶とは違っていた。けれどもそれは、酒屋がコンビニになっていたり、弁当屋が違うチェーン店のものになっていたり、そういう小さな違いで、もしかしたら単なる記憶違いなのかもしれないとも思った。たかが三週間でいくつもの店が入れ替わるとも思えなかった。
 ほどなくして海岸通りに出ると、点在していた店もなくなった。窓を閉めていても磯の匂いを感じる。
 左手に海を見たまましばらく進むと、車は右折してすぐの路肩に停車した。
「着きました」
 亀山が先に降りて、後部座席のドアを開けてくれる。
 ぶわっと生臭い風に包まれた。毎日吸っていた匂いのはずなのに、胃が押し上げられる感じがして、慌てて唾を何度も飲み込んだ。
 ようやく顔を上げると、そこにあるはずの小さな平屋はなく、杭と針金で囲われた更地があるだけだった。セイタカアワダチソウが群生し、杭の根元には空き缶やら食品の空き袋などが散乱している。いずれも土に汚れ、色褪せている。
 なにがあったのか。
 更地に背を向けると、道路の向こうに海が見えた。だが、なにかが違う。
 車の通行を確認するのもそこそこに道を渡る。落下防止柵が妙に低い。視界が高いのだ。身長が、伸びた?
「……亀山さん!」
 呼びかけても亀山は車の傍を離れない。志麻子は車が一台通り過ぎるのを待って、駆け寄った。
「亀山さん、いま、何年?」
 返ってきた年は志麻子の記憶より三年も先だった。亀山は続ける。
「志麻子さんは十八歳です」
 高校に進学していれば卒業している歳だ。叔母のもとにいたのは三週間ではなく、三年だったのだ。なぜ。なぜ。そんな勘違いをするだろうか。あの家での穏やかな日々を思い返してみても、どれがいつの記憶かも定かでなく、それよりも、どれも同じような日々で違いなどわからない。三日にも三週間にも三年にも同じに思えた。頭がぼんやりする。
「亀山さん……」
 亀山は運転席のドアを開け、取り出したものを志麻子に見せた。叔母の書庫にあった螺鈿細工の小箱だ。
「美姫様からです。志麻子さんが望むなら渡してくださいとのことでした。すべて知るときがきたのでしょう、と」
 この小箱がなにを示すのかわからなかったが、志麻子は迷わず受け取った。書庫で手に取ったときは鍵がかかっていたが、いまは開錠されている。蓋を開けると、中にはオイルライターがひとつ、入っていた。植物の図案のような複雑な彫り物が施されていて、ひと目で高級なものだとわかる。

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