小説

『ひと花咲か爺さん』宍井千穂(『花咲か爺さん』)

「本当に。でも、楽しい夜でした」
 短い横断歩道に差し掛かると、古ぼけたアパートが月明かりに照らされてぼんやりと浮かび上がった。ここで爺さんと出会ったのが、もうすっかり昔のことみたいに思える。もし昨日、メールが送られてこなかったら。俺は傷ついたまま一人眠れない夜を過ごしていたかもしれない。
「神様……」
 ありがとう、と続けようとしたところで、強烈な光に目がくらむ。同時に、けたたましいクラクションとブレーキの音。トラックが迫っていると気付いた時には、すでに逃げるのも間に合わない距離になっていた。
 俺、死ぬのか。せっかく、頑張ろうと思えたのに。いやだ、神様――。
「危ない!」
目を閉じたと同時に、体が宙を舞った。
 だが俺を突き飛ばしたのは硬いトラックではなく、しわだらけの爺さんの手だった。
 トラックのヘッドライトが後光のように爺さんを照らし出す。
 爺さんは、笑っていた。びっくりするほど穏やかに、神々しく。
 叫ぶ間も無く、トラックが爺さんを捉えて通り過ぎた。
「爺さん!」
 急いで爺さんがいた場所に駆け寄るが、爺さんの姿はどこにもなかった。
 代わりに真っ赤なスイートピーが一輪、夜風に吹かれて揺れていた。
 最期の最期で粋なことしやがって。
 瞼を焼くような熱い涙が溢れだす。俺は夜が明けるまで、ただずっと子供のように泣き続けた。

 
 窓から吹き込む爽やかな風が、スイートピーの柔らかな花弁を優しく包み込む。はらはらと震えているその姿は、まるで飛び立っていく蝶のようだ。その花言葉は、『別離』。最期の瞬間に遺すには、ぴったりの花だ。
 そっと花瓶に水を注ぎ込む。あの夜から3ヶ月ほど経つが、一向に枯れる様子がない。きっと神様が咲かせた花だからだろう。俺はさっき買ってきたつくねとビールを取り出して、花瓶のそばに置いた。
「大好きだったつくねとビール、置いとくよ。……今日は、いい報告があるんだ。俺、就職決まったよ。観葉植物を扱ってる会社の営業職。植物が大好きな爺さんがいるって言ったら、すごく興味を持ってくれたんだ。……花ほどにはならないけど、俺の人生にも芽くらいは生えたよ」
 俺、頑張るよ。爺さんに見られても、恥ずかしくないように。
 鼻の奥がツンとしてきて、思わず上を向く。鼻をかもうとティッシュを手に取ったところで、チャイムが来客を告げた。
誰だろう、こんな夜更けに。
 チャイムが押される感覚がだんだん短くなってくる。久しぶりに活躍するチャイムは、どことなく嬉しそうだ。
 まさか……。

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