小説

『ひと花咲か爺さん』宍井千穂(『花咲か爺さん』)

 昨日からのゴタゴタで、すっかり忘れていた。12時の約束だったが、間に合うだろうか。俺は爺さんの手を引き、全力で走りだした。

 
 よく磨かれたガラス張りの回転ドアをくぐる。11時50分。なんとか間に合った。受付に向かう俺の後ろでは、爺さんが植木鉢に植えられた木をじっと見つめている。さっきは勢いで良いと言ってしまったが、本当に大丈夫だろうか。俺はアパートでの爺さんとの会話を思い出した。

「なあ、わしもその面接とやらに付いていっても良いかのぉ」
 慌ただしくスーツに着替える俺の前で、爺さんがポツリと呟いた。大きく首を振るが、爺さんは尚も食い下がる。
「わし、人間界にあまり来たことがなくてのぉ。色々見てみたいんじゃ。もしお前さんが困ると言うんじゃったら、姿も消せるし」
 ほら、と爺さんが両手を広げる。だんだんと爺さんの輪郭がぼやけ、ついには向こう側の景色が透けて見えるほどにまで透明になった。
「姿が消せるのは良いけど、それで仕事運は上がるのか?」
 ネクタイを締めながらぶっきらぼうに質問を投げると、爺さんは押し黙った。それでも面接が気になるのか、苦し紛れの言い分を展開し始める。
「……仕事運も司ってはいないが、仕事のできる男だとは言われておったし……人間どもに人気の大山咋神とはマブダチじゃし……」
 膝を抱えてねだるような視線をチラチラと向けて来る。潤んだ瞳でみられても全く可愛くないが、いたいけな老人をいじめているようで胸が痛い。ご利益の点は怪しいが、腐っても神なんだから、いないよりはマシだろう。
 文字通り神にでもすがりたいような焦りの中、俺は渋々首を縦に振った。

「次の方、どうぞ」
 呼び掛けに応え、部屋に入る。
「失礼します」
 さらに俺に続いて爺さんが入る。3人の面接官たちは全員俺の方に目を向けており、爺さんには気づいていないらしい。受付でも廊下でもそうだったから、やっぱり俺以外には爺さんは見えていないのだろう。
「どうぞ、お掛けください」
 簡単な自己紹介を終えると、一番年長の面接官に着席を促される。俺は椅子に座り掛けた爺さんをさりげなく肘で押しやって、どうにか腰を下ろした。爺さんは不満そうな顔をしていたが、すぐに室内をウロウロと歩き回り始めた。
変なことだけはしないでくれよ。
 俺が爺さんに気を取られている間にも、面接は容赦無く進んでいく。
「山崎さんは、どうして、新卒の時に正社員として就職されなかったんですか?」
「それは、お恥ずかしい話、就職活動に失敗してしまいまして……。ですが、アルバイトでは店長補佐として経理や店員の管理業務を担当しました。そのスキルは御社でも」

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