小説

『雪消』田中紘介(『雪のなかのゆうれい』)

 幼稚園の頃、年の離れた中学生の兄について、何度かパチンコに行ったことを樋口は思い出した。そこで樋口は、パチンコ玉をこっそり集めて拾っては、兄に渡していた。そうすると後で兄からお菓子を買ってもらえることに味を占めていたのだった。ある時、いつものようにパチンコ玉を拾おうとしたら、同い年くらいの女の子が、まさにその玉を拾おうとしていた。その子の瞳は沙夜香のそれに似ていた。樋口はその瞳に魅了され、思わず少女にパチンコ玉を譲った。彼女は黙って玉をさっと取ると、その時はすぐに去ってしまった。若い父親といつも来ていて、いつからか、樋口はその子が気になるようになっていた。彼女も樋口に好意を抱いたらしく、微笑みかけてくれることさえあった。ある時、彼女は集めたパチンコ玉を「あげる」と言って彼の手の平に有無を言わせず押し込んだ。彼女は満面の笑みで、とてもいいことをしたとでも言うかのように、得意気な顔をして、それから父親の元に戻ってしまった。

 だが、ある日を境に、樋口はパチンコに連れて行ってもらえなくなった。理由を兄に聞くと、どうやら、そのパチンコ店で、親が連れて来ていた幼女が行方不明になってしまったとのことだった。親がパチンコに熱中しているうちに、姿を消してしまったのだ。
 警察が捜査を始めると、防犯カメラには初老の男に連れ去られる幼女の姿が写っていた。そして数日後、そのパチンコ屋から5キロ足らずの河川敷で、幼女は死体となって発見された。
 兄はそのことについて話したがらなかった。樋口が、連れ去されたのはあの女の子かと聞くと、苛立ちながらそんなはずはないと兄は答え、その度に樋口はその態度に誤魔化しを感じ、絶望するのだった。
 一度など思いつめた樋口は家族の目を盗んで一人でパチンコ屋に彼女を探しに行ったこともあった。だがパチンコ屋の店員はすぐに樋口に気づき、彼を追い出してしまった。その上、後で店に来た兄にそのことを告げられ、樋口はこっぴどく怒られたのだった。
 それから、樋口は成長するにつれて、記憶の底に蓋をするように、そのことを意識しないようになっていた。

 そんなことを考えながら、ぼんやりして玉を打っていると隣にいつの間にか、沙夜香がいた。
「覚えてる?」と沙夜香は言って樋口の目を覗き込んだ。
 ギクリとして、樋口は沙夜香をまじまじと見返した。その可愛らしさは、やはり彼がかつて見た、あの面影を宿すものだった。
 そしてある考えが頭に浮かび、あっと口が開いたが、声にならなかった。あの時期に親子連れでパチンコに来ていたのは、そもそも沙夜香だけではない。樋口とて毎日兄と一緒にパチンコ屋に来ていた訳ではなかった。他の女の子を樋口が単に見かけたことがないだけで、連れ去られたのは沙夜香ではなく、別の誰かだったのではないか、そして今ここにいる沙夜香は、あの時自分に微笑みかけてくれたあの女の子が美しく成長した姿だとしたら?・・・。なんてことだ、と樋口は思った。
「ああ、覚えてる」とかろうじて樋口は答えた。

 店を出ると、けたたましいホールのBGM、遊技台のフィーバー音が嘘だったかのように、雪があらゆる音を吸収し、辺りはしんと静まり返っていた。雪に覆われた河川敷を二人で歩きながら、樋口は遠い過去を思い出していた。

「俺さ、吉田がもしかして・・・」と樋口は言いかけたが、話さない方がいい気がした。
「どうしたの?」

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