小説

『雪消』田中紘介(『雪のなかのゆうれい』)

 その日、樋口はいつものようにぼんやりと窓の外を眺めていた。化学の授業はもうすっかりお手上げだった。雪はいつもより静かに、ゆっくりと積もっていた。落ちていく雪をじっと見ていると、樋口はその時間の緩慢さに思わず吸い込まれそうになった。

 沙夜香が転校してきたのは、十二月の初旬頃だった。
 教室に沙夜香が先生と初めて入ってきた時、クラスはあっという間にざわついた。艶のある黒髪のショートカットで、彫りが深く、大きな目をしていて、肌は透き通るような白さで吹き出物なんて一度もできたことがないのではないかと思わせるほど、きめ細やかな肌をしていた。そして皆の目にさらされたことで、頬にはうっすらと赤味が差していた。
「今日からC組の一員になる、吉田沙夜香さんです。」と先生が紹介し、彼女も小さい声で「よろしくお願いします」と言いながら頭を下げた。沙夜香は父親の仕事の都合の関係で、どうやらこの町に引っ越してきたらしい。父親は大手の英会話学校のマネージャーで、仕事の関係で数年に一度転居しているそうだ。実はこの町にも小さい頃少しだけ住んでいたことがあるらしいが、ほとんど覚えていないので、はじめての町に来たように感じていると彼女は言った。

 学校が終わったら、早速沙夜香にちょっかいを出してやろう。そう思っていた樋口は、雪礫を作って、沙夜香を待ち伏せしていた。
 彼女が学校の門を通り抜けたところで、雪礫を彼女の頭めがけて投げた。すると完全に狙い通りのコースに行ったと思ったにも関わらず、雪は彼女に当たらず、あたかも彼女を避けるように、頭上の脇を通り抜けてしまった。沙夜香は振り返ると一言、
「ばか」
 と言った。
 さっきは大人しそうに見えたのにどうやら猫を被っていたようだと思った樋口は、走って彼女に追いついた。
「ごめんな」
 沙夜香は無視したまま歩き続けた。「なあごめん、なんかおごるよ。」
 そう言うと、通りにある自販機に走った。
「何がいい?」
「コーラ」
「この寒いのにコーラか。まあいいよ。」
 普段は気づきもしない自販機のモーター音が、ずいぶんと大きく聞こえる。
 沙夜香にコーラを渡すと、
「ありがとう」と彼女は言った。それから「私、急ぐから」と言って、雪の中を駆けていった。

 次の日、英語の授業で先生に当てられると、沙夜香は例文を読み始めた。おそらく、ほとんどネイティブに近いのだろう、もはや発音の良さを隠すこともできず、彼女は明らかに浮いていた。クラスにどよめきがおこり、「おーすげーじゃん!」「外人だな!」と騒ぐ周りに対して彼女は昨日の自己紹介の時のように頬を赤らめたりもせず、無反応だった。英語の担任である片岡先生は、自分よりもはるかにうまい沙夜香の発音に内心気が気ではなかったかもしれない。何しろ、片岡先生はこの町では珍しい海外在住経験者で、彼の発音は日本人にしては上手いものがあった。だが素人目に聞いても、沙夜香の発言は群を抜いて綺麗で、日本人らしさが全くなかった。

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