自然も身体の奥がむず痒くなってきたようで、胸のあたりに爪を立てていた。やがて、手先から消え始め、全身が藪蚊に変身していった。
「おお、おおおっ⁈」
蟲と成った自然はやはり鏡の前で自分の変化を確認し、部屋から飛んで出ていった。今夜も月が綺麗だったので、道に迷うこともないだろう。鈔烬は『孟子』の写しをパラパラと捲りながら自然の帰りを待った。
時折、鈴虫の声が聞こえるくらいで、あたりは静かだった。
しばらくして帰った自然は、人間に戻ると上気した顔で呟いた。
「や、やはり男女のまぐわいを覗き見るのは格別じゃ〜」
「へ?」
「いや、冗談、冗談、何でもない。ごほん。こいつはワシが預かるとしよう。巫蠱(ふこ)の乱は知っておろう? 呪術というものは効用もあるが、漢代の武帝の心を乱すほど、危険な側面もあるのじゃ。こいつは慎重に研究する必要がある」
「なるほど、一理ある。ソチは密教を学びにきたのじゃったな。存分に研究して、成果をマロにご教授くだされ」
「ああ、約束する」
しかし一向に急須が戻ってくる気配はなかった。時々街で顔を合わせても、もうすぐもうすぐなどと、自然は鈔烬を煙(けむ)にまいた。
それから何ヶ月も過ぎ、いよいよ遣唐使は新羅の船を使って帰国するという段取りとなった。しかし自然の姿はどこにもなかった。結局、捜索も虚しく自然だけを欠いたまま、遣唐使一行は出航した。北淵鈔烬は帰国の途に当たって、漢詩をひとつしたためている。ほとんど杜甫の剽窃である。
恨別蚊驚心
自然は密教研究などまったくせずに、毎夜、女湯を覗いたり男女の寝室を覗いたりと、色欲に溺れていた。ある夜、いつものように藪蚊に変身した自然は、鼻歌交じりに気分良く空を飛んでいた。とある高貴なお屋敷の、楊貴妃の生まれ変わりなどと噂のたった若い女を覗き見するつもりだったのだ。
たしかに女は器量も色艶もよく、噂通り美しかった。
女は湯に入るため、帯を解き、絹の肌着をするりと脱いだところだった。自然はもう、見ているだけでは気が済まなくなっていた。興奮のあまり、女の尻にくっつき、吻(ふん)を挿して血を吸い始めたのだ。
「あら、やだ」
女は尻の蚊に気づき、パシリと掌で蚊を潰した。その瞬間、自然は文字通り昇天し、人間に戻ることなくその生涯を閉じたのだった。
そんなこともつゆ知らず、北淵鈔烬は日本海の荒波に揺られ、自然への恨みの詩を書きなぐっていた。