小説

『ハウ・スウィート』三坂輝(『酸っぱい葡萄』)

 泰志も大変な会社に入ったものだと、彼は思った。約束の20時は20分過ぎた。連絡はない。
 テーブルに女性店員が歩み寄る。
「お連れ様がいらっしゃる前に、何か頼まれますか?」
「……そうですよね」
 相談に乗る前に、できるだけ酔っていたくはない。メニューを開き、ゆっくりと目を通す。
「こちら、ワインリストもありますので」と店員がもう一冊のメニューを開く。
 学生時代には来なかったタイプの店だ。値段を見れば安くはない。こんな店で相談なんてしなくてもいいのに。けれども、いいさ、泰志は大変なんだから。
「食前酒でもいかがですか? こちら、ちょっと変わった葡萄を使っているんです」
「はい」と、あまり考えずに答えた。
 ちょっと急かされたような気がした。どうして、この店にしたのか。まあ、つまりは大変なんだ、泰志は。彼はもう一度思った。
 泰志は大学時代の友人である。
 会社の近くにある中華料理屋で昼食をとっていると、泰志から急に連絡が来た。卒業して三か月、一度も会っていなかった。「今夜、飲みに行こう」と言う。急な話と、「店は選んでおくよ」という泰志の積極的な姿勢に、大変でガス抜きもしたいのだろうと彼は思った。

 彼と泰志は、大学卒業後、同業に進んだ。ワインの商社だ。同じエリアに会社があるため、最寄り駅も同じだが、会ったことはない。
 泰志の会社は立派な大企業だ。ベイサイドのどこからでも、本社ビルが目に入る。何より最寄り駅のプラットフォームには、大きな広告が掲げられている。
 一方で、彼の勤める会社は、商社と言えば聞こえは良いものの、実際のところは零細の三次卸だ。同期どころか20代の社員も30代の社員もいない。平均年齢は45歳。彼が入社する前は60歳後半だった。直近の先輩は、48歳になる。
 彼はいつも早朝から、効果の見えないポスティング作業をさせられている。ポスティング用のチラシは、彼がパワーポイントで作った。それまでは退職した高齢社員が一太郎で作ったチラシが、長年ありがたがられていた。
 午後になれば、ほとんどの社員が外へ出る。入れ替わりに、彼は会社に戻り、留守番をする。
 夕方ごろになれば注文対応に追われる。会社の主な顧客は小さな飲食店で、その日ごとに小まめな納品が求められる。しかし、先輩社員たちは、外回りからそのまま17時には直帰する。自然と、会社に残っている彼が、それらの急な注文に対応する。軽バンに自分の手でワインを積んで、顧客へ届け、社に戻る。
 楽ではない。けれども、彼は良いほうだと思っている。
 泰志がいるからだ。

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