小説

『ハウ・スウィート』三坂輝(『酸っぱい葡萄』)

 彼はしばしば、かゆくもない皮膚を掻くような気分で、泰志のことを考える。大企業に勤める泰志は取り扱う商材の数も量も自分の比ではないだろう。顧客への責任も大きい。上司も同期のライバルも多いはずだ。
 あくまでも彼の想像だ。就職活動中に調べていた、その会社へのイメージである。
 けれども、そうだと彼は強く信じていた。
 自分が落ちた会社が、大変でないわけがない。つらくて仕方のない会社のはずなのだ。

 30分遅れで、泰志は来た。
「残業?」と彼は聞いた。
「わるいわるい。同期と飲んでたんだわ」
 彼の指定した時間は泰志には遅く、18時の退社後に同期と一軒寄ってから来たらしい。
 泰志が女性店員にワインを頼んだ。「お願いね、サンちゃん。あの人、三戸さんって言うんだよ。だからサンちゃん」。女性店員は年上に見えるが、泰志はくだけた口を利く。
 大学時代は、同じテニスサークルで、よく飲んでいた。お互いの酒量はよく分かっている。泰志はあまり飲めるほうではない。
 今日はたくさん酒を飲みたいほどに大変だったのかもしれないと彼は思った。
 話題は少なくなかった。同級生の話、業界の話、このエリアの話。
 彼は丁寧に耳を傾け、適度に相槌を打った。しかし、いつまでも相談話は切り出されなかった。
 誘われたことに理由はなかった。強いて言えば、職場が近かったからというだけのことだった。
 女性店員が注文を取りに来る都度、泰志は話しかけた。
「あぁ、サンちゃん、こいつオレの大学の友達でさ。ワイン売ってるの」
「へえ、そうなんですか。同じ会社の方ですか?」
「違う違う。えっと、何だっけ、会社名? 名刺渡しておけば?」
 乗り気ではなかったが空気を悪くするのが嫌で、彼は渋々、名刺を取り出し、渡した。
 泰志は楽しそうだった。「じゃ、もう1杯くらい頼もうか。適当に任せるよ」と言うと、立ち上がってトイレへ向かった。
 彼は女性店員と目を合わせた。
「あいつ、楽しそうですね」
「ええ、いつも。会社の方といらして、いつも楽しそうです」

 大変じゃないのかよ。
 彼は思った。
 彼が入社できなかったその会社はきっと大変な日々なのだと、考えていた。どうせ、あんな会社はつらいだけのはずだと。
 しかし、入社した泰志は、その会社に勤めるからこその充実した社会人生活を堪能していた。朝遅くに出社し、夜早くに退社して同期と飲む。それでいて、エンターキーの一つも押せば、商品は国境をまたぎ、彼が扱う何倍もの金が動く。

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