小説

『澄んだ風と感情の具象化 アニメ的な挿入・エピローグ』誰何苹果(『老人と海』)

 彼は黙って、地平線を眺めていた。否定をしないその無言の態度を、僕は肯定だと受け取った。
 彼の態度は超然としており、若さに似合わない風格を持っていた。僕は彼の言葉が聞きたくなり、ここぞとばかりに相談を持ちかけた。悩み相談である。受かったはいいがちっともノルマを達成していない事、自分は才能を信じていたが始めて二か月で打ちひしがれている事、スターになりたかったがそれは叶うものかどうか、自分はこのバイトを続けるべきかどうか、そもそも自分に向いているのか、など。彼は黙って、延々続く僕の不安を聞いていた。それが終わると彼は答えた。
「スターになりたい、か。そして悩んでいる。少なくとも言えることは、如何なるスターと呼ばれた傑人達も、早かれ遅かれ君の持つ悩みは経験している。しかし彼らはその不安を浮かんだ瞬間に打ち消して来た。そんな筈はない、自分には出来る筈だ、と。もちろん、この仕事が好きだから、これからも続けてやっていきたいから、だ。  
 君は本当に迷っているのかい? 僕には辞めるに十分な理由を探しているようにしか窺えないがな。
 向いているか向いていないというのが、その人にあるとは思わない。そいつが確かに、そいつの意識を、その方向に向けているかどうかだと思う。おまえが全身でもって、このバイトに向いているのか、自分の胸に聞いてみると言い」
 傍らの木も、その奥に控える泉も、地平線上に連なるぼやけた山脈までもが、つー、と遠のく感覚がした。胸に聞くまでもないことだった。石原さんは短い挨拶を済ませ静かに帰った。一人になった僕は、風が揺らす前髪と全く同じ気分だった。

 夏を迎えたジャングルは緑が濃かった。思い出したように吹く潤った風は、葉をかさかさと揺らしている。風は青臭いが、木々の影で冷まされ涼しく、森に住む者たちの胸の内を、空っぽにさせた。
 うっそうと茂る森の中、とりわけ頑丈な木の枝の上に全身が真っ黒な影のような少年がいた。重なった広葉樹の葉の隙間を縫うように刺す日光に、時おり照らし出される少年の目は締まっていて凛々しかった。視線は下にたたえる湖にさだまっていた。
 そこへ何も知らない白馬が、熱した体を冷ましにとさとさと歩いてきた。体高一六〇程の筋肉のしっかり付いた馬だった。湖のふちに行きついた白馬は、長い首を下に落とし水を飲んだ。そして、一呼吸置くために首を上げたその瞬間。
 その瞬間、少年は枝から飛び降りた。大の字に両手両足を広げ、白馬に一直線。ほんの一秒もない落下の先、びたーんという音が響いた。白馬の背中に張り付いた黒い少年。彼が剝がれるとそこには、綺麗に縦縞の模様が付いた白馬「シマウマ」がいた。シマウマは湖に映った自分の姿に興奮し、森の奥地へ一目散に駆けていった。
 シマウマを見送った少年は、落ち着いて湖の水で顔をすすいだ。黒塗りの取れた顔は、我らが知ったる岡本少年であった。彼は指折って数を数えた。六匹。今月のノルマはどうやらギリギリで達成したらしい。彼は透き通った顔で空を見上げた。
 名も知らないあの鳥と一緒に自由に飛んでみたい。彼はそうつぶやいた。
 湖ではぼやけた墨が繁殖するように広まり、薄まって消える。

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